ソロモンの治世中、主は彼に2回現れて、是認と勧告の言葉をお与えになった。すなわち、ギベアにおける夜の幻の中で、謙遜と服従に関する訓戒とともに、知恵と富と栄誉の約束が与えられた。次に、神殿の奉献のあとで、主は、もう1度、彼に忠実であるように勧告をお与えになった。ソロモンに与えられた訓戒は明白で、その約束は驚くべきものであった。それなのに、この任命に留意し、天の神の期待にそうことが、その置かれた環境においても、その品性においても、その生涯においても、当然すぎるほど適任と思われた人について、次のように記されている。「彼は主の命じられたことを守らなかった」。「このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れた…、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられた」(列王紀上11:9、10)。彼の背信は、その極に達し、彼の心は罪のためにかたくなになり、その状態はほとんど絶望と思われたのである。 PK 422.3
ソロモンは神との交わりの喜びを離れて、肉体的快楽に満足を見いだそうとした。この経験について、彼は次のように言っている。 PK 422.4
「わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、園と庭をつくり、……わたしは男女の奴隷を買った。……わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。…… PK 422.5
なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである、……わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕らえるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。 PK 422.6
わたしはまた、身をめぐらして、知恵と、狂気と、愚痴とを見た。そもそも、王の後に来る人は何をなし得ようか。すでに彼がなした事にすぎないのだ。……わたしは生きることをいとった。……わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ」(伝道の書2:4~18)。 PK 422.7
ソロモンは自分自身の苦い経験から、地上の事物の中に人生の最高の幸福を求めることのむなしさを学んだ。彼は異教の神々の祭壇を建てたが、それらが与える心の平安の約束がどんなにむなしいものであるかを学んだに過ぎなかった。陰惨な心の悩みが夜も昼も彼を苦しめた。彼にはもはや人生の喜びも心の平和もなく、将来は暗たんとしていた。 PK 422.8
しかし、主は彼を見捨てられなかった、主は譴責の言葉と厳しい刑罰によって、王の行為の罪深さを彼に自覚させようとなさった。主は主の保護の手を取りのけて、敵が王国を攻撃して、弱めることをお許しになった。「こうして主はエドムびとハダデを起して、ソロモンの敵とされた。……神はまた……レゾンを起してソロモンの敵とされた。……彼は……略奪隊の首領となった。……彼はイスラエルを憎んでスリヤを治めた」。「ヤラベアムはソロモンの家来で」「非常に手腕のある人で」「あったが、……彼もまたその手をあげて王に敵した」(列王紀上11:14~28)。 PK 423.1
ついに主は、預言者によって、ソロモンに驚くべき言葉をお伝えになった。「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す」(同11:11、12)。 PK 423.2
ソロモンは彼と彼の家に対するこの刑罰の宣告によって、夢からさめたかのように、本心に立ち返り、彼の愚行の真相を見始めた。彼は神の懲らしめを受け、精神も体も衰弱して疲れ果て、かわき切って、世の水がめから離れて、もう1度生命の源の水を飲むために帰ってきた。ついに、苦難の懲戒は彼に対する務めをなしとげたのであった。 PK 423.3
彼は愚かな行為から離れることができなかったために、長い間、永遠の滅びの恐怖にさいなまれていた・しかし、彼は今、彼に与えられた言葉のなかに希望の光を認めたのである。神は完全に彼を切り離されたのではなくて、彼を死よりも残酷な束縛から助けようとして、待ち構えておられたのである。そして、彼はそれから自分を解放する力を持っていなかったのである。 PK 423.4
ソロモンは、「位の高い人よりも、さらに高い者」であられる神の力といつくしみを認めて感謝した(伝道の書5:8)。彼は自分が遠く離反してしまった純潔と清さの高い水準に辛抱強く立ちもどり始めた。彼は罪の有害な結果を逃れて、自分がたどったあらゆる放縦の道を忘れ去ることはできなかった。しかし、愚かな道を歩かないように、熱心に他の人々に説き勧めるのであった。彼は謙遜に自分の歩いた道の誤りを告白し、彼が引き起こした害悪に影響されて、他の人々が回復の見込みもなく失われてしまわないように警告の声をあげた。 PK 423.5
真に悔い改めた人は自分の過去の罪を忘れてしまわない。彼は平和が与えられるやいなや、自分の犯した誤りに関して無関心のままにすごすことはない。彼は自分の行為によって悪に引き入れられた人々のことを考え、できる限りのことをして、彼らを正しい道に引き返そうとするのである。彼が受けた光が明るければ明るいほど、他の人々の足を正しい道に導きたいという願いもまた強力なのである。彼は、自分の勝手気ままな行動をよく見せかけて彼の悪を軽々しいことにしたりせずに、危険信号をかかげて、他の人々に警告を与えるのである。 PK 423.6
ソロモンは「人の心は悪に満ち、…狂気がその心のうちに」あることを認めたのである(同9:3)。彼はまた次のように言った。「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがあるけれども、神をかしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを、わたしは知っている。しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである」(同8:1~13)。 PK 423.7
ソロモン王は霊感を受けて、後世の人々のために、彼の浪費した年月の記録を残し、警告の教訓を与えているのである。こうして、彼がまいた種は悪の収穫となって、彼の国民に刈り取られたのではあったが、彼の一生の事業が全くむだであったのではなかった。ソロモンは、後年、柔和と謙遜の精神をもって、「知識を民に教えた。彼はよく考え、尋ねきわめ、あまたの箴言をまとめた。伝道者は麗しい言葉を得ようとつとめた。また彼は真実の言葉を正しく書きしるし た。知者の言葉は突き棒のようであり、またよく打った釘のようなものであって、ひとりの牧者から出た言葉が集められたものである。わが子よ、これら以外の事にも心を用いよ」(伝道の書12:9~12)。 PK 423.8
「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である、神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」と彼は書いた(同12:13、14)。 PK 424.1
ソロモンの後に書いたものは、彼が、ますます自分の歩んだ道の邪悪をさとって、天の最も尊い賜物を彼のように浪費する誤りにおちいらないように青年たちに警告を発することに特別の注意を払っていっていることを示している。彼は、彼の人生の最盛期、すなわち、彼が神を彼の慰め、支え、生命とすべきであった時に、天の光と神の知恵に背を向けて、主の礼拝のかわりに偶像を礼拝したことを、恥と悲しみのうちに告白した。そして今、こうした生活の愚かさを悲しい経験によって学んだ彼は、なんとかして、彼が経たような苦い経験に他の人びとがおちいらないように助けたいと願ったのである。 PK 424.2
彼は、哀愁をこめて、神の奉仕に当たっている青年たちの前で、その特権と責任について書いた。 PK 424.3
「光は快いものである。目に太陽を見るのは楽しいことである。人が多くの年、生きながらえ、そのすべてにおいて自分を楽しませても、暗い日の多くあるべきことを忘れてはならない。 PK 424.4
すべて、きたらんとする事は皆空である。若い者よ、あなたの若い時に楽しめ、あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の道に歩み、あなたの目の見るところに歩め。ただし、そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ。あなたの心から悩みを去り、あなたのからだから痛みを除け。若い時と盛んな時はともに空だからである」(伝道の書11:7~10)。 PK 424.5
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、町の門は閉ざされる。その時ひきこなす音は低くなり、人は鳥の声によって起きあがり、歌の娘たちは皆、低くされる。彼らはまた高いものを恐れる。恐ろしいものが道にあり、あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え、人が永遠の家に行こうとするので、泣く人が、ちまたを歩きまわる。その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(同12:1~7)。 PK 424.6
ソロモンの生涯は、青年たちだけでなくて、壮年期の人々にも、また、人生の坂道を下って西の空に没する太陽を眺める人々にも、警告に満ちている。われわれは、青年たちが不安に襲われ、正義と悪の間をよろめき、邪悪な欲望の潮流に圧倒されそうになっているのを見聞きしている。分別盛りの年令層には、こうした不安と不忠実があるとは思わない。われわれは、彼らが、しっかりとした品性を持ち、固く原則に根ざしていることを当然のことと予期するのである、しかし、必ずしもそうであるとは限らない。ソロモンは樫の木のようにがんじょうな品性を持っているべき時に、誘惑に負けて、主義に固く立つことをしなかった。彼の力が最も強くあるべき時に、彼は最も弱かったのである。 PK 424.7
このような例から、われわれは目をさまして祈ることだけが、若い者にも年とった者にも唯一の安全策であることを学ばなければならない。高い地位や大きな特権が与えられているから、安全であるというのではない。真のキリスト者経験を長年にわたって味わった人であっても、なお、サタンの攻撃にさらされるのである。内部の罪と外部の誘惑に対する戦いにおいて、知恵と力があったソロモンでさえ敗北したのである。彼の失敗は、人間の知的特質がどんなにすぐれ、また、過去においてどんなに忠実に神に仕えた とはいっても、人間は自分自身の知恵と誠実さに安心して頼ることができないことを、われわれに教えているのである。 PK 424.8
どの時代、また、どの国においても、品性建設の真の土台と模範とは常に同じであった。「心をつくし……主なるあなたの神を愛せよ。……また……あなたの隣り人を愛せよ」という神の律法は、われわれの救い主の品性と生涯にあらわされた大原則であるが、これだけが唯一の安全な基礎であり、唯一の指導原理である(ルカ10:27)。「また主は救と知恵と知識を豊かにして、あなたの代を堅く立てられる」(イザヤ33:6)。この知恵と知識は、神のみ言葉のみが与え得るものである。 PK 425.1
神の戒めに従うことについてイスラエルに語られた言葉は、今日も、同様に真実である。「これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である」(申命記4:6)。個人的誠実さ、家庭の純潔、社会の福祉、または、国家の安定に対する唯一の安全策がここにあるのである。人生のあらゆる混乱と危険、矛盾した主張のさ中にあって、唯一の安全で確実な規則は、神が言われることである。「主のさとしは正しくて」、「これらの事を行う者はとこしえに動かされることはない」(詩篇19:8、15:5)。 PK 425.2
ソロモンの背信の教訓に留意する者は、彼をおとしいれたそれらの罪との最初の接触を避けるのである。天の神の要求に従うことだけが人間を背信から守るのである。神は人間に大きな光と多くの祝福をお与えになった。しかし、彼らがこの光とこれらの祝福を受け入れなければ、彼らは不服従と背信におちいらないように保護されることができない。 PK 425.3
高い信頼の地位に高められた人々が、神から離反して人間の知恵を求める時に、彼らの光は暗くなる。彼らに委ねられた能力はわなとなるのである。 PK 425.4
争闘の終結に至るまで神から離反する人々があるものである。サタンはわれわれが神の力に保護されているのでなければ、巧みに環境を利用して、知らず知らずのうちに魂の防備を弱めてしまうのである。われわれは1歩進むごとに、「これは、主の道であろうか」と尋ねてみなければならない。生命のある限り、断固とした目的をもって、愛情と情欲とを守らなければならない。われわれが神により頼み、いのちがキリストとともに隠されているのでなければ、一瞬でも安全ではあり得ないのである。目をさまして祈ることが純潔を保つための安全策である。 PK 425.5
神の都に入る者はみな、狭い門、すなわち、激しく身を悩ますことによって入るのである。「汚れた者……は、その中に決してはいれない」(黙示録21:27)。しかし、誰1人として倒れたからといって、失望して挫折する必要はない。かつては神から栄誉を受けた年配の者が、情欲の祭壇の上で、美徳を犠牲にして魂を汚したとしても、もし彼らが悔い改めて罪を捨て、神に立ち返るならば、彼らにも、なお、希望はあるのである。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」と言われたお方は、「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」とも招いておられるのである(黙示録2:10、イザヤ55:7)。神は罪を憎まれるが、罪人をお愛しになる。「わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する」と言われる(ホセア14:4)。 PK 425.6
ソロモンの悔い改めは真実のものであった。しかし、彼が示した悪行の害毒は、取りかえすことができなかった。彼が背信した間にも、王国の中には、彼らに委ねられた信頼にこたえて、純潔と忠誠を保った人々があった。しかし、背信した者も多かった。そして、偶像礼拝と世俗の風習の導入によって引き起こされた悪の勢力は、王の悔い改めによって、簡単に阻止することはできなかったのである。 PK 425.7
善事に対する彼の影響は大いに弱められた。彼の指導に全的信頼をおくことをちゅうちょする者が多かった。彼は自分の罪を告白し、後世のために、彼の愚行と悔い改めの記録を残したのではあるが、彼の悪行の及ぼした害毒を完全にぬぐい去ることを望むことはできなかった。 PK 425.8
彼の背信に勢いを得て、ひたすら、ただ悪のみを行 う者が多かったのである。そして、彼に続いた多くの干たちの堕落を見る時に、そこに、ソロモンが神から与えられた能力を悪用したことの悲しい影響をたどることができるのである。ソロモンは自分の悪行の苦い思い出に苦しみ、「知恵は戦いの武器にまさる。しかし、ひとりの罪びとは多くの良きわざを滅ぼす」。「わたしは日の下に1つの悪のあるのを見た。それはつかさたる者から出るあやまちに似ている。すなわち愚かなる者が高い地位に置かれ」ていると述べなければならなかった。 PK 425.9
「死んだはえは、香料を造る者のあぶらを臭くし、少しの愚痴は知恵と誉よりも重い」(伝道の書9:18、10:5、6、1)。 PK 426.1
ソロモンの生涯が教えている多くの教訓の中で、善または悪に対する影響力ほど、強調されたものはない。われわれの範囲はどんなに狭いものであっても、われわれは、なお、善または悪に対して影響を及ぼすのである。それは、われわれの知識と支配の範囲を越えて、他の人々に祝福かのろいを与えるのである。それは、不満と利己心に満ちた陰うつなものでもあれば、また何か心に秘められた罪の恐ろしい毒気をもったものでもあり得る。それとも、それは、信仰と勇気と希望に満ち、生命力にあふれ、愛の甘い香りに満ちたものでもあり得るのである。確かに、善であれ、悪であれ、影響の力は大きいのである。 PK 426.2
われわれの影響が、死に至らせる死のかおりになるということは恐ろしいことであるが、その可能性が十分あるのである。1人の魂が道を誤まり、永遠の祝福を見失うという大きな損失を、いったい誰が推測することができようか。しかし、われわれの向こう見ずな1つの行為、軽はずみな1つの言葉が、他の人の生涯に強い影響を及ぼして、その人を滅びにおとしいれることがあるのである。品性の1つの欠陥が、多くの人々をキリストから引き離すことがあるのである。 PK 426.3
種がまかれて収穫され、それが、またまかれて収穫は増し加わっていく。この法則はわれわれの他との交わりにおいても同じである。すべての行為、すべての言葉は、実を結ぶ種である。親切、服従、自己犠牲などの行為はみな、他の人々のなかに再現され、彼らによってさらに他の人々のなかに再現されていく。そのように、ねたみ、悪意、また紛争は、みな、多くの人が汚される「苦い根」を生やす種である(ヘブル12:15)。そして、その「多くの人」は、さらにどんなに多くの人々を毒することであろう。こうして、善と悪との種まきは、いつまでも続くのである。 PK 426.4