本章は列王紀上18:41~46、19:1~8に基づく PK 450.3
バアルの預言者たちを殺すことによって、北王国の10部族の間に大いなる霊的改革を推進する道が開かれた。エリヤは人々に彼らの背信を指摘した。そして、心を低くして主に立ち返るように彼らに呼びかけたのである。天の神の刑罰が執行された。人々は彼らの罪を告白して、彼らの先祖の神が生ける神であることを認めた。そして今や、天の神ののろいは取り除かれ、生命の物質的祝福が回復されるのであった。地は雨で潤されるのであった。「大雨の音がするから、上って行って、食い飲みしなさい」とエリヤはアハブに言った(列王紀上18:41)。それから預言者エリヤは、祈るために山の頂に登っていった。 PK 450.4
エリヤがこのような確信をもってアハブに雨の準備をするように命じたのは、雨が降りそうな外面的証拠が何かあったためではなかった。エリヤは空に雲を見なかった。雷の音も聞かなかった。彼はただ彼自身の強い信仰に答えて、主の霊が彼を動かして語らせられた言葉を語ったにすぎなかった。彼は1日中、びくともしないで神のみこころを行い、神の言葉の預言に対する絶対的信頼をあらわしてきた。そして今、彼は力のなし得る限りのことをなし終えた。そこで彼は、天の神が預言された祝福を豊かにお与えになることを知っていた。かんばつをお与えになった同じ神が、正しい行為の報いとして豊かな雨を約束されたのである。そしてエリヤは今、約束された雨が注がれるのを待った。彼は「顔をひざの間に入れ」て謙遜な態度をとり、悔い改めたイスラエルのために、神にとりなしの祈りを捧げた。 PK 450.5
エリヤは神が彼の祈りを聞かれたというしるしがあらわれたかどうかを知るために、幾度もしもべを地中海を見下ろす岬につかわした。その度にしもべは帰ってきて、「何もありません」と言った。エリヤは気短になったり信仰を失ったりせずに、熱心に祈りつづけた。しもべは、青銅のような空には雨の降るしるしは何もないと言って6回も帰ってきた。 PK 450.6
エリヤは臆することなく、もう1度彼を送り出した。するとしもべは、今度は帰ってきて「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」と言った(列王紀上18:43、44) PK 450.7
これで十分であった。エリヤは空が暗くなるまで待たなかった。彼は信仰によって、その小さな雲のなかにあふるるばかりの雨を見た。そして彼は、その信仰に従って行動した。彼はすぐにしもべをアハブに送って、「雨にとどめられないように車を整えて下れ」と伝えさせたのである(同18:44下句)。 PK 450.8
イスラエルの歴史におけるこの重大な危機こおい て、神がエリヤをお用いになることができたのは、彼が大きな信仰の人であったからである。、彼は祈り、信仰の手をのばして天の神の約束をつかんだ、そして彼は祈りが聞かれるまで祈りつづけた。彼は神が祈りをお聞きになったという十分な証拠が与えられるまで待たず神の恵みのほんのわずかなしるしにすべてをかけるのであった。しかし彼が神の助けによってなし得たことは、すべての者がそれぞれの神の奉仕における範囲内においてなし得ることなのである。ギレアデの山から出て来た預言者について、次のように記されている。「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、3年6か月のあいだ、地上に雨が降らなかった」(ヤコブ5:17)。 PK 450.9
このような信仰、すなわち、神のみ言葉の約束をつかんで、天の神がお聞きになるまで、どんなことがあっても手を離さない信仰が、今日世界に必要である。このような信仰がわれわれを天の神と密接に結びつけ、悪の勢力と闘う力をわれわれに与えるのである。神の民は信仰によって、「国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた」(ヘブル11:33、34)。われわれも今日、信仰によってわれわれに対する神のみこころの高い水準に到達しなければならない。「信ずる者には、どんな事でもできる」(マルコ9:23)。 PK 451.1
信仰は、力ある祈りの重要な要素である。「神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである」(へブル11:6、Ⅰヨハネ5:14、15)。 PK 451.2
われわれはヤコブの不撓不屈の信仰、エリヤのたゆまぬ忍耐力とをもって、われわれの願いを天の父に申し上げ、彼が約束されたすべてのことを自分のものとすればよいのである。神はそのみ座の名誉にかけて、ご自分のみ言葉を成就してくださるのである。 PK 451.3
アハブが山を下る準備をした時には、カルメル山の周りには夜の闇が迫っていた。「すると間もなく、雲と風が起り、空が黒くなって大雨が降ってきた。アハブは車に乗ってエズレルへ行った」(列王紀上18:45)。アハブは暗黒と大雨の中を王の都に向かって進んで行ったが、道をよく見ることができなかった。エリヤはその日、神の預言者としてアハブを国民の前で辱め、偶像礼拝の祭司たちを殺したのであるが、なお彼をイスラエルの王として認めた。そして今、彼は神の力に強められて、尊敬の行為として王の戦車の前を走って、都の門まで王を案内したのである。 PK 451.4
神の使命者のこうした慈悲深い行為は、神のしもべであると主張しながら、自分たちを高く評価しているすべてのものに対する教訓である。自分には、そのような卑しい仕事はできないと感じる人々がある。彼らはしもべの仕事をしているのを発見されることを恐れて、必要な任務を行うことすらためらうのである。こうした人々はエリヤの模範から多くの教訓を学ばなければならない。彼の言葉によって、天の宝が3年の間地に降らなかった。彼は特別に神の栄誉を受け、カルメル山上の彼の祈りの応答として、天から火が降って犠牲を焼きつくした。彼の手は偶像礼拝の預言者たちを殺して、神の刑罰を執行したのである。エリヤは公の奉仕において神の栄誉を受け、著しい勝利を収めたあとで、快くしもべの仕事をしたのである。 PK 451.5
エズレルの門のところで、エリヤとアハブは別れた。彼は城壁の外に残り、外套にくるまってそのまま土の上に寝ることにした。王は中に入って行って、間もなく王宮についた。そこで彼は、その日の驚くべき事と、神の驚くべき力のあらわれを王妃に話した。それは主が真の神であり、エリヤが神に選ばれた使命者であることを証明したのである。アハブが、偶像礼拝の預言者たちを殺したことをイゼベルに話した時に、心かたくなで改める気持ちのない彼女は激しく怒った。 イゼベルは、カルメル山上において神が摂理のみ手をもって働かれたことを認めず、なお反抗的態度をとって、大胆にエリヤの死を要求するのであった。 PK 451.6
その晩1人の使者が疲れた預言者を起こして、イゼベルの言葉を彼に伝えた。「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」(同19:2)。 PK 452.1
あのように不屈の勇気を示し、国王や祭司たちや国民に対してあのように完全な勝利を収めたエリヤは、その後落胆したり、おじ気づいたりすることはあり得ないかのように思われる。しかし、このように多くの神の愛の保護の証拠を与えられた彼も、人間的弱さに勝つことができず、この暗黒の時に信仰と勇気を失ってしまった。彼はあわてて飛び起きた。雨は空から降っていた。そしてあたり一面真っ暗であった。エリヤは3年前に、イゼベルの憎しみとアハブの追跡を避けるために、神が彼を隠れ家へと導かれたことを忘れて、今必死になって逃げたのである。彼はべエルシバに着いて、「しもべをそこに残し」、「自分は1日の道のりほど荒野にはいって行っ」た(同19:3、4)。 PK 452.2
エリヤは彼のいるべき場所を逃げ出してはならなかった。彼は主の栄誉を擁護することを彼にお命じになったお方の保護を仰ぎ求めて、イゼベルの威嚇に立ち向かわなければならなかった。彼は自分が信頼している神が、女王の怒りから彼を保護してくださることを、使者に告げるべきであった。彼が驚くべき神の力のあらわれを目撃してから、まだほんの数時間しか経っていなかった。 PK 452.3
そしてこれは、彼が今捨て去られることはないという確証を彼に与えるはずであった。彼がその場にとどまり、神を彼の避け所、また力として真理のために固く立ったならば、彼は危害を受けることなく守られたことであろう。主はイゼベルに刑罰をお与えになって、もう1つの著しい勝利をお与えになったことであろう。そしてそれは、王や国民に深い感銘を与えて、大いなる改革を引き起こしたことであろう。 PK 452.4
エリヤはカルメル山上において行われた奇跡によって、大いなることが起こることを期待した。彼はこうした神の力のあらわれのあとでは、イゼベルがアハブの心に影響を及ぼすこともなく、イスラエル全土に改革が速やかに行われるであろうと望んだのであった彼はカルメル山上において、食事もとらず1日中祈ったのである。しかしアハブの卓をエズレルの門まで案内したとき、彼の体は骨折りに疲れていたにもかかわらず心は勇気にあふれていた。 PK 452.5
ところが、大いなる信仰と輝かしい成功の後によくあり勝ちな、反動的な気持ちがエリヤを襲っていた。彼はカルメル山において始まった改革が、長続きしないのではないかという絶望感に陥った。彼はピスガの峰まで高められたのであったが、今は谷間に落ちていた。彼は全能者の霊感を受けて、最もきびしい信仰の試練に耐えたのである。しかし、イゼベルのおどしが耳に鳴りひびき、サタンが今なお、この邪悪な女の策略によって、勝ち誇るかのように見えたこの失望の時に、彼は神に対する信頼を失った。彼は著しく高められたので、その反動もはなはだしかった、エリヤは神を忘れて、遠くへ逃げ去って行った。そしてついに、荒涼とした荒野にただ1人でいるのに気づいた。彼は疲れ果てて、れだまの木の下に座って休んだ。彼はそこに座って、自分の死を求めたのである。「主よ、もはや、じゆうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」と彼は言った(列王紀上19:4下句)。失望落胆して人里遠く落ち延びたエリヤは、2度と人間の顔を見たいとは思わなかった1ついに彼は、疲れ切って眠ってしまった。 PK 452.6
誰でも時には、激しい失望と絶望に陥る時があって、心は悲しみに満たされ、神が今でも地上の子供たちの慈悲深い保護者であられることを信じ難日々があるものである。心は悩みにさいなまれて生きているよりは死んだほうがましだと思われる時がある。そうした時に多くの者は、神に対する信頼を知て、疑いと不信の奴隷になるのである。そのような時に、もしわれわれが霊的洞察力をもって、神の摂理の 意味を悟ることができたならば、天使たちがわれわれを助けて、われわれの足を永遠の山よりも堅い基礎の上におこうと努めているのを見ることができるであろう。そして、新しい信仰と新しい生命がわき上がることであろう。忠実なヨブは、苦難と暗黒の時にも、次のように言った。 PK 452.7
「わたしの生れた日は滅びうせよ。」 PK 453.1
「どうかわたしの憤りが正しく量られ、 PK 453.2
同時にわたしの災も、はかりにかけられるように。」 PK 453.3
「どうかわたしの求めるものが獲られるように。 PK 453.4
どうか神がわたしの望むものをくださるように。 PK 453.5
どうか神がわたしを打ち滅ぼすことをよしとし、 PK 453.6
み手を伸べてわたしを断たれるように。 PK 453.7
そうすれば、わたしはなお慰めを得」る。 PK 453.8
「それゆえ、わたしはわが口をおさえず、 PK 453.9
わたしの霊のもだえによって語り、 PK 453.10
わたしの魂の苦しさによって嘆く。」 PK 453.11
「わたしは息の止まることを願い……、 PK 453.12
わたしは命をいとう。 PK 453.13
わたしは長く生きることを望まない。 PK 453.14
わたしに構わないでください。 PK 453.15
わたしの日は息にすぎないのだから。」 PK 453.16
(ヨブ3:3、6:2、8~10、7:11、15、16) PK 453.17
ヨブは人生にうみ疲れたとは言っても、死ぬことを許されなかった。ヨブには将来の可能旨性が示され、希望の言葉が与えられたのである。 PK 453.18
「堅く立って、恐れることはない。 PK 453.19
あなたは苦しみを忘れ、 PK 453.20
あなたのこれを覚えることは、 PK 453.21
流れ去った水のようになる。 PK 453.22
そしてあなたの命は真昼よりも光り輝き、 PK 453.23
たとい暗くても朝のようになる。 PK 453.24
あなたは望みがあるゆえに…、 PK 453.25
保護されて…… PK 453.26
あなたは伏してやすみ、 PK 453.27
あなたを恐れさせるものはない。 PK 453.28
多くの者はあなたの好意を求めるであろう。 PK 453.29
しかし悪しき者の目は衰える。 PK 453.30
彼らは逃げ場を失い、 PK 453.31
その望みは息の絶えるにひとしい。」 PK 453.32
(ヨブII:15~20) PK 453.33
ヨブは失望と落胆のどん底から、神の憐れみと救いの力に絶対的に信頼するという高尚な境地に昇った。彼は勝ち誇って言った。 PK 453.34
「見よ、神が私を殺しても、 PK 453.35
私は神を待ち望み、…… PK 453.36
神もまた、私の救いとなってくださる。」 PK 453.37
「私は知っている。 PK 453.38
私を贖う方は生きておられ、 PK 453.39
後の日に、ちりの上に立たれることを。 PK 453.40
私の皮が、このようにはぎとられて後、 PK 453.41
私は、私の肉から神を見る。 PK 453.42
この方を私は自分自身で見る。 PK 453.43
私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。」 PK 453.44
(ヨブ13:15、16、19:25~27・新改訳) PK 453.45
「主はつむじ風の中からヨブに答えられた」(同38:1)。そしてそのしもべに、神の力の勢いをあらわされた。ヨブは創造主のお姿を拝見したときに、自分自身を忌み嫌って、ちり灰の中で悔い改めた。その時に主は、彼に豊かな祝福を与え、彼の最後の年月を、彼の生涯の最良のものとすることがおできになったのである。 PK 453.46
希望と勇気は、神に完全な奉仕をするために、ぜひ必要なものである。これらは信仰の実である。神はご自分のしもべたちが試練に遭った時に必要な力を、豊かに彼らに与えることがおできになる。そしてそうしようと望んでおられるのである。神の働きに対する敵の策略は、よく計画され確立しているように見えるであろう。しかし神は、これらの計画の最も強力なものでも、覆すことがおできである。そして神はし もべたちの信仰が十分に試めされたことをごらんになる時に、神ご自身の時と方法においてこれをなさるのである。 PK 453.47
気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。信仰と活動は、日毎に増大する確信と満足とを与える。あなたは不吉な予感に恐れを感じ、失望落胆に陥ろうとしているであろうか。一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。神はその約束をなし遂げられないのではないかと恐れてはならない。神は永遠の真理である。神は、神を愛する人々と結ばれた契約を変更なさらない。そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。使徒パウロは、次のようにあかししている。「『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。……だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(Ⅱコリント12:9、10)。 PK 454.1
神はエリヤを、試練の時にお捨てになったであろうか。いや、そうではない。神はエリヤの祈りに答えて、天から火を降らせて山の頂を照らされた時と同様に、彼が神と人に捨てられたと感じた時にも、彼を愛しておられた。さてエリヤが眠っていると、静かに手を触れて快い声で呼びかける者があるので目が覚めた。彼は敵が彼を見つけたのかと思って、驚いて逃げ出そうとした。しかし、彼の上にかがんでいる憐れみ深い顔は、敵の顔ではなくて友の顔であった。神はしもべのために食物を持って、天からの使いをお送りになったのである。「起きて食べなさい」と天の使いは言った。「起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン1個と、1びんの水があった」(列王紀上19:5、6)。 PK 454.2
エリヤは彼のために備えられた食物を食べたあとでまた眠った。もう1度天使が来た。天使は疲れ果てたエリヤにさわって、憐れみ深く言った。「『起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしようから』。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力ついて40日40夜行って、神の山ホレブに着いた」(同19:7)。そこで彼はほら穴に隠れた。 PK 454.3