本章はペテロの第1の手紙に基づく AA 1551.5
使徒行伝には使徒ペテロの後期の働きについては、ほとんど証されていない。ペンテコステの聖霊の降下に続く活発な伝道の期間、ペテロは、年毎の祭にエルサレムに参拝しにやってくるユダヤ人たちに接 しようと、ほかの者たちに混じってたゆまぬ努力を続けていた。 AA 1551.6
十字架の使命者たちがエルサレムやその他の場所を訪問し、信者の数が増えるにつれて、ペテロの持っていた才能は、初期のキリスト教会にとって測り知れない価値を持つものであることがわかった。ナザレのイエスについての彼のあかしは、広く遠く影響を及ぼした。彼の上には二重の責任が負わされていた。彼は未信者たちの前で積極的にメシヤについてあかしを立て、彼らを改心させるよう熱心に働くとともに、信者たちに特別に働きかけて、キリストに対する彼らの信仰を強めた。 AA 1552.1
ペテロは、自己放棄へと導かれて、完全に神の力により頼むようになったときはじめて、大牧者のもとで働く羊飼いとしての召しを受けた。キリストは、ペテロがキリストを拒む前に、「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、ペテロに言っておられた(ルカ22:32)。このみことばは、この使徒がやがて、信仰に導かれるはずの人々のためになさねばならない、広範で効果的な働きのことを意味していた。ペテロ自身の罪と苦しみと悔い改めの経験が、この働きのために、彼を準備させたのであった。彼は自分の弱さを知るまで、キリストにより頼むことの必要を悟ることができなかった。誘惑の嵐のただ中で彼は、人は自己を全く放棄して救い主により頼む時にはじめて、安全に歩むことができるということを理解するようになっていた。 AA 1552.2
キリストと弟子たちが最後に海辺で会った時、ペテロは、「わたしを愛するか」と3度くり返して問われ、ためされて、12使徒の座にもどされた(ヨハネ21:15~17)。彼の働きは既に定められていた。彼は主の羊たちを養うのであった。悔い改め、受け入れられた今、彼は、囲いの外の人々を救う努力をしなければならないばかりか、羊たちの牧者にならなければならなかった。 AA 1552.3
キリストはペテロに、奉仕の条件をたった1つだけ言われた、「わたしを愛するか」。これが最も大切な資格である。ペテロに他のものが全部備わっていたとしても、もしキリストを愛する愛がなければ、神の羊たちを牧する忠実な羊飼いになることはできなかった。知識、博愛、雄弁、熱情、これらすべてはよい働きに欠くことのできないものであるが、心にキリストへの愛がなければ、キリスト教の牧師の仕事は失敗である。 AA 1552.4
キリストへの愛は気まぐれな感情ではなく、生きた原則であり、心の中にある変わることのない力としてあらわれるものである。羊飼いの品性と品行が、彼の主張する真理をよく示しているならば、主はその働きを承認する印を押して下さる。羊飼いと羊の群れは、キリストにある共通の望みによって結ばれ、1つになる。 AA 1552.5
救い主がペテロを取り扱われた方法は、ペテロと彼の仲間たちにとって1つの教訓を含んでいた。ペテロは主を拒んだが、主が彼に対して抱いておられた愛は、決してゆるがなかった。そしてこの使徒が、みことばを他の人々に伝える働きに携わるようになった時、彼は罪を犯す者に、忍耐と同情とゆるしの愛をもって接しなければならなかった。彼は自分自身の弱さと失敗を思い起こして、キリストが彼を取り扱われたように、優しく心を配って、羊や小羊たちを扱わねばならなかった。 AA 1552.6
人間は、自分自身が悪に染まってしまっているので、誘惑に陥っている者や過ちを犯している者にいたわりのない扱いをしがちである。人間には人の心が読めず、心のあがきや痛みを知らない。彼らは、愛の譴責について、いやすために傷つける打撃について、また、希望を告げる警告について、学ぶ必要がある。 AA 1552.7
ペテロは働きの初めから終わりまでずっと、自分の手にゆだねられた羊の群れを忠実に見守り続け、こうして、救い主から与えられた責任にふさわしい者であることを証明した。彼は絶えずナザレのイエスを、イスラエルの望み、人類の救い主としてあがめた。彼は自分自身の生涯を、大教師の訓練のもとにおいた。また、力のかぎりあらゆる手段を用いて、信者たちを活動的な奉仕のために教育しようとした。ペテロの敬虔な模範とたゆまぬ活動は、有望な多くの若者た ちを励まし、彼らを伝道の働きに献身させた。時がたつに従い、教育者として、また指導者としての使徒の感化は強まった。そして彼は、ユダヤ人のための特別な働きの手は決してゆるめなかったが、一方では多くの地方にあかしを立て、福音を信じる多くの群れの信仰を強めた。 AA 1552.8
ペテロは、その働きの晩年において、霊感を受けて「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤに離散し」ている信者たちに手紙を書いた。彼の手紙は、試練や苦難に耐えている者たちの勇気を奮い起こさせ、信仰を強め、また、多くの誘惑の中で神とのつながりを失う危険に陥っている者たちを、再び良い働きに励ませる手段となった。これらの手紙は、キリストの苦難と慰めを十分に受けてきた者、また、その全存在が恵みによって変えられ、永遠のいのちという確かでゆるぎない望みを持っている者によって書かれたという印象を与える。 AA 1553.1
この年老いた神のしもべは、彼の第1の手紙の最初に、主にさんびと感謝をささげている。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである」と彼は言った。 AA 1553.2
新しくされた地で確かに資産を受け継ぐというこの望みを抱いて、初期のクリスチャンたちは、厳しい試練や苦難に会っている時でさえも、喜んでいた。「今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども……言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」と、ペテロは書いた。 AA 1553.3
使徒の言葉は、あらゆる時代の信者たちを教えるために書かれた。そしてこれは、「万物の終りが近づいている」時に生存している者にとって、特別な意味を持っている。彼の励ましと警告、信仰と勇気の言葉は、「最後までしっかりと」信仰を持ち続けようとする、すべての者に必要である(ヘブル3:14)。 AA 1553.4
使徒ペテロは信者たちに、禁じられた話題へと心がさまよわないように、あるいは、つまらぬことにその力が浪費されないようにすることが、いかに大切かを教えようと努めた。サタンの策略のとりこにならないようにしようと思う者は、魂の通路をよく見張っていなければならない。思いを不純にするようなものを読んだり、見たり、聞いたりしないようにしなければならない。魂の敵がほのめかすような問題に、手当たり次第にとびついたりしないよう、心を引きしめていなければならない。心は忠実に見張られていなければならない。でないと、外部の悪が内部の悪を目覚めさせて、魂を暗黒の中にさまよわせるであろう。「心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。……無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」。 AA 1553.5
「地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。 あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである」。 AA 1553.6
もし銀や金で人々の救いを買うことができたとすれば、「銀はわたしのもの、金もわたしのものである」と言われる方は、いともたやすく人々の救いを成就されたであろう(ハガイ2:8)。しかし、罪人は、神のみ子の尊い血によってのみあがなわれることができた。救いの計画は犠牲の中にあった。使徒パウロは「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」と書いている(Ⅱコリント8:9)。キリストはあらゆる罪からわれわれをあがなうために、ご自身をお与えになった。そして救いの最高の祝福として「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6:23)。 AA 1554.1
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい」と、ペテロは続けた。神のみことば、すなわち真理は、主がみ霊と力をあらわされる通路である。みことばに従うことによって、要求されている実、すなわち「偽りのない兄弟愛」という実を結ぶ。この愛は天から生まれ、高尚な動機や無我の行動へと至る。 AA 1554.2
真理が生活の中の不動の原則になる時、魂は「朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によ」って「新たに生れ」る。この新生は、キリストを神のことばとして受け入れた結果である。聖霊によって神の真理が心に刻まれると、新しい思いが喚起され、これまで眠っていた力が呼びさまされて神と協力する。 AA 1554.3
ペテロと仲間の弟子たちの場合もそうであった。キリストは、真理をこの世にあらわされる方であった。キリストによって、朽ちない種——神のみことば——が人々の心にまかれた。しかし、この大教師の最も大切な教訓の多くが、語られた当時はその人々に理解されなかった。キリストの昇天後、聖霊がキリストの教えを弟子たちに思い出させた時、彼らの眠っていた意識が目覚めさせられた。これらの真理の意味が新しい啓示として彼らの心にひらめき、純粋で混ぜ物のない真理が定着した。その時キリストのご生涯のすばらしい経験が彼らのものとなった。みことばは、主の任命されたその人々を通してあかしされ、彼らはその力強い真理を宣べ伝えた。「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。……(それは)……めぐみとまこととに満ちていた」。「わたしたちすべての音は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた」(ヨハネ1:14、16)。 AA 1554.4
使徒ペテロは、聖書を学ぶように、そしてそれを正しく理解して、永遠のために確かな働きをするようにと、信者たちを励ました。ペテロは、最後に勝利者となる者はみな、当惑や試みの場を経験することを知っていた。しかし彼はまた、聖書を理解していれば、試みられる者は、心を慰め、偉大なる方への信仰を強める、いくつもの約束を思い出すことができることを知っていた。 AA 1554.5
「『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る』。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである」。 AA 1554.6
ペテロが手紙をあてた信者たちの多くは、異教徒たちの中に住んでいた。そして彼らが、その信仰の高い召しに忠実であり続けるかどうかに多くがかかっていた。使徒ペテロは、キリスト・イエスに従う者としての特権を彼らに力説した。「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り 伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」。 AA 1554.7
「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう」。 AA 1555.1
使徒ペテロは、信者たちが公の権威に対してとるべき態度を明瞭簡潔に述べた。「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい」。 AA 1555.2
しもべたちは主人に仕えるようにと教えられた。「心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである」。 AA 1555.3
ペテロは信仰を持つ女性たちに、行いは清く、服装と態度は慎み深くあるようにと勧告した。「あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである」。 AA 1555.4
この教訓はどの時代の信徒にもあてはまる。「あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」(マタイ7:20)。柔和でしとやかな内面の飾りは極めて貴重なものである。真のクリスチャン生活において、外面の飾りは常に内面の平和ときよさとに調和している。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と、キリストは言われた(マタイ16:24)。自己否定と犠牲がクリスチャン生活の特色となる。好みが変わったことの証拠は、主にあがなわれた者たちのために与えられた道を歩むすべての者の服装に見られるようになる。 AA 1555.5
美を愛し、それを望むのは正しいことである。しかし神は、われわれが、まず最高の美、すなわち朽ちることのない美を、愛し求めるよう望んでおられる。どんな外面の飾りも、価値や美しさにおいて、「柔和で、しとやかな霊」、この世のすべての聖なる者たちが着る「純白で、汚れのない麻布の衣」と比べることのできるものは何もない(黙示録19:14)。この衣装は彼らを、この世においては美しく、愛される者とし、きたるべき世では、彼らが神の宮殿に入るためのしるしとなる。神は約束しておられる、「彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である」(黙示録3:4)。 AA 1555.6
使徒ペテロは、予言のまぼろしを受けて、キリストの教会が入ろうとしていた危難の時代を見やり、試 練や苦しみに直面してもぐらつかないようにと信者たちを励ました。「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむこと」がないようにと、彼は書いた。 AA 1555.7
試練は、神の子らをこの世の不純なものからきよめるために、キリストの学校において与えられる教育の一部である。試みの経験がやってくるのは、神がその子らを導いておられるからである。試練や障害は、神がお選びになった訓練方法であり、神が指定された成功の条件である。人々の心を読み取られる神は、彼ら自身が知る以上に彼らの弱さをよく知っておられる。神は、ある者たちが、正しく指導されればみわざの進展に用いられることのできる資質を持っているのを見られる。み摂理のうちに、神は、これらの人々を違った立場や様々な環境に置き、自分では気づかない、隠れた欠点を発見できるようにさせて下さる。神は彼らに、これらの欠点にうち勝ち、献身するにふさわしい者となるような機会を与えて下さる。しばしば神は苦しみの火を燃えさせて、彼らがきよめられるようにして下さるのである。 AA 1556.1
神の選民に対する神の思いやりは尽きることがない。神が、神の子らの上にふりかかるのをお許しになる苦しみはみな、彼らの現在の、また永遠の利益のために、欠くことのできないものばかりである。キリストが地上でのご奉仕のあいだ宮をきよめられたように、神は教会をきよめられる。神が民たちをためし、試みるためにもたらされるものはすべて、彼らが、十字架の勝利を進展させるために、より敬虔になり、更に強くなるためである。 AA 1556.2
ペテロの経験において、キリストのお働きの中に十字架を見たくない時があった。救い主が弟子たちに、ご自身に迫る苦難と死を知らせられた時、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と叫んだ(マタイ16:22)。キリストと苦しみを共にすることを恐れる自己憐憫の気持ちから、ペテロはとっさにいさめようとした。この弟子にとって、この世のキリストの道が苦悩と屈辱の中にあることは、つらい教えであり、なかなか悟ることのできない教訓であった。しかし彼は、炉の火の真っただ中でこの教訓を学ぶのであった。かつての活動的な姿が、長年の重荷と労苦のために腰をかがめている今、彼は、「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」、と書くことができた。 AA 1556.3
キリストの羊の群れを飼う羊飼いとしての責任について、ペテロは教会長老たちに次のように書き送った。「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」。 AA 1556.4
羊飼いの地位を占める者は、主の群れを注意深く見守らねばならない。それは、独裁的な監視ではなくて、励まし、強め、高めるよう導くものでなければならない。牧師の務めには、説教すること以上の意味がある。それは熱心な、個人的な働きである。地上の教会はまちがいの多い人々から成り立っている。彼らは、忍耐強く、労を惜しまず努力することによって訓練されて、この世において受け入れられる働きをなし、そして来世において光栄と朽ちぬものとを与えられるようにしなければならない。神の民に対してへつらうのでなく、彼らを苛酷に取り扱うのでもなくて、いのちのパンで彼らを養う牧師たち——すなわち忠実な羊飼い——が求められている。こうした羊飼いは、自分たちの生活の中で、聖霊の改心させる万を日ごとに感じ、自分たちが働きかける人々に対して強い無我の愛を抱くのである。 AA 1556.5
羊飼いは教会の中で、仲たがい、辛辣、ねたみ、嫉妬に対処するよう求められる時、それを上手にさばく仕事が彼に負わされている。彼は、物事をきちん と整えるために、キリストのみ霊によって働かねばならない。牧師は説教壇から働きかけるばかりでなく、個人的に働きかけて、忠実に警告を与え、罪を譴責し、不正を正さなければならない。強情な人は教えに対して異議を申し立てるかもしれない。そして神のしもべは誤解され非難されるかもしれない。その時には次のことばを思い出そう。「上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、憐れみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである」(ヤコブ3:17、18)。 AA 1556.6
福音を伝える牧師の仕事よ、「神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示す」ことである(エペソ3:9)。もしこの働きに携わる者が、最も自己犠牲の少ないことを選んで、説教に満足し、個人的な伝道の働きをだれか他の人に任せてしまうようなら、彼の働きは神に受け入れられるものとはならない。キリストが身代わりとなられた魂は、正しく導かれた個人的な接触がないために滅びようとしている。牧師職に携わりながら、群れの世話に求められる個人的な働きに尽くそうとしない者は、その召しを誤解しているのである。 AA 1557.1
真の羊飼いの精神は、自分自身を忘れる精神である。彼は神のみわざに携わるために、自我を見失う。みことばを説教し、人々の家庭で個人的な伝道をすることにより、彼は人々の必要や、悲しみや、試みを学ぶ。そして、重荷を負って下さる偉大な主と協力して、彼らの苦しみを共にし、失望を慰め、魂の飢えを和らげ、彼らの心を神へと導く。この仕事をする牧師には天の使いが伴い、そして彼自身、救いに至る知恵を与える真理を教えられ、啓発されるのである。 AA 1557.2
教会で責任ある地位を占めている人々への教えに関連して、使徒ペテロは、教会で交わる人々みんなが従わなければならない一般的な原則のあらましを述べた。群れの若い者たちは、長老たちの模範にならって、キリストのような謙遜な態度を身につけるように勧められた。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」。 AA 1557.3
こうしてペテロは、教会にやってきた特別な試練の時に、信者たちに手紙を書き送った。多くの人々は既にキリストの苦難にあずかる者となっていた。そして、まもなく教会は、きびしい迫害の時代を経験するのであった。わずか数年のうちに、教会の教師や指導者の立場にあった人々の多くが、福音のために命を捨てるのであった。まもなく恐ろしいおおかみたちは侵入してきて、容赦なく群れの命を奪うのであった。しかし、これらのことはいずれも、希望の中心をキリストに置いている人々を失望させることはできなかった。ペテロは、励ましと勇気づけの言葉で、信者たちの心を現在の試練や未来の苦難の光景から、「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産」へと向けさせた。彼は熱烈な祈りをささげた。「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン」。 AA 1557.4