弟子ヨハネの生涯に、真のきよめとは何かということが例示されている。キリストと親密に交わった数年間に、ヨハネはしばしば救い主から戒めと注意を受けた。そして彼はこうした叱責を受け入れた。聖なる方のご品性が現された時、彼は自分の欠点を認め、啓示によって謙遜にされた。毎日彼は自分の激しい気性とくらべて、イエスの柔和と寛容を見、謙遜と忍耐の教訓を聞いた。毎日彼の心はキリストに引きつけられ、ついには主に対する愛によって自己がかき消されていった。ヨハネが神のみ子の日常生活の中に力とやさしさ、威厳と柔和、強さと忍耐を見た時、彼の心はただ、感嘆するばかりであった。彼は自分の憤慨しやすい、野心的な性質をキリストの形成する力にゆだねたので、天来の愛が彼のうちに働いて、品性を一変させたのである。 AA 1569.1
ヨハネの生涯において達成されたきよめと著しい対照を示して、仲間の弟子ユダの経験がある。同僚と同じく、ユダもキリストの弟子であると告白していたが、彼の敬神はほんの形だけのものだった。ユダはキリストのご品性の美しさを感じなかったわけではない。事実、救い主のことばを聞いている時、しばしば彼に改心の気持ちがあらわれた。しかし、彼は謙遜な心になり、罪を告白しようとしなかった。ユダは聖なる感化を拒んで、彼が愛を告白したはずの主の名を汚した。ヨハネは自分の欠点と真剣に戦ったが、ユダは良心を汚し、誘惑に負けて、悪の習慣を更にしっかりと身につけてしまった。キリストが教えた真理を実行することは、彼の願望と目的に一致しなかった。そして、彼は天来の知恵を受けるために、自分の考えを捨てるように自分を動かすことができなかった。ユダは光の中を歩くことをせず、闇の中を歩くことを選んだ。悪い願い、強欲、復讐心、暗く陰気な思いが彼の心をとらえ、ついにサタンに全く支配されるまでになった。 AA 1569.2
ヨハネとユダは、キリストの弟子だと告白した人たちを代表している。この2人の弟子は、同じようにキリストの模範を学び、それに従う機会を持っていた。2人ともイエスと密接に交わり、主の教えを聞く特権を与えられていた。2人はそれぞれ性格に大きな欠点があったがまた、2人とも、性格を変える聖なる恵みに接することができた。しかし、1人が謙遜にイエスのことを学んでいる間に、もう1人はみことばを実行せずただ聞くだけであった。1人が日ごとに自己に死に、罪に勝利して、真理によってきよめられていたのに、他方は、恵みの変える力を拒み、利己的な願いにふけり、サタンのとりこにされた。 AA 1569.3
ヨハネの生涯に見られるような性格の変化は、常にキリストと交わっていたために与えられたものである。人にはそれぞれ性格に目立つ欠点があるかもしれない。しかしその人が、キリストの真の弟子になると、神の恵みの力により変えられ、きよめられるのである。彼は主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、崇拝する主と同じ姿に変えられていく。 AA 1569.4
ヨハネは聖潔の教師であった。そして教会へ宛てた手紙の中で、クリスチャンの行いについてまちがうことのない原則を書き記した。「彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」と、彼は書いた。「『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(Ⅰヨハネ3:3、2:6)。クリスチャンは心と生活がきよくなければならないと、ヨハネは教えた。口先だけのむなしい言葉に満足してはならない。神が天において神聖であられるように、堕落した人間はキリストに対する信仰によって、そのいるところできよくなければならない。 AA 1569.5
「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」と使徒パウロは書いた(Ⅰテサロニケ4:3)。教会のきよめは、神の民に対して神がなされるすべてのわざの目的である。神は彼らがきよくなるように、永遠の昔から彼らを選んでおられた。神は彼らのためにみ子のいのちを犠牲にされた。それは彼らが真理に従順に従うことによってきよめられ、自己の偏狭さ をすべて脱ぎ捨てるためである。神は彼らに個人的な働き、個人的屈服を要求される。彼らが神のかたちに似たものとされ、み霊によって支配される時はじめて、神は信仰を告白する者たちによってあがめられることができる。そして後、救い主の証人として彼らは、彼らのためになされた神の恵みを知らせることができる。 AA 1569.6
真のきよめは愛の原則から出た働きによってあらわれる。「神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます」(Ⅰヨハネ4:16)。キリストが心に住む人の生活は、敬神の心を行いにあらわすであろう。品性はきよめられ、高められ、気高くされ、あがめられるであろう。純粋な教えは正義の働きとよく混じり合い、天来の教えは聖なる実践と調和するのである。 AA 1570.1
きよめの祝福を受けようとする人たちは、まず自己犠牲の意味を学ばなければならない。キリストの十字架は、「永遠の重い栄光」のかかる主柱である。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と、キリストは言われる(Ⅱコリント4:17、マタイ16:24)。神に対するわれわれの愛を示すものは、同胞に対するわれわれの愛のかおりである。魂に休息をもたらすのは、奉仕における忍耐である。謙遜に、勤勉に、忠実に働いてこそ、イスラエルの幸福は増し加えられる。神はキリストの道に自発的に従いたいと思う者を支え、強めて下さるのである。 AA 1570.2
きよめは、一瞬、1時間、1日だけの働きではなく、一生の働きである。それは感情の幸福な高揚によって得られるのではなく、絶えず罪に死に、絶えずキリストのために生きることの結果である。弱々しい、時たまの努力では、間違いを直すことも、品性を改善することもできない。長い、忍耐強い努力と、苦しい訓練と、断固たる戦いによってのみ、われわれは勝利することができる。われわれは次の日の戦いがどんなにきびしいものになるかを知らない。サタンが支配しているかぎり、われわれは自我を静めて、絶えずつきまとう罪にうち勝たねばならない。生きているかぎり、留まる場所もなければ、完全にやり遂げたと言えるところもない。きよめは生涯の服従から生じるものである。 AA 1570.3
使徒や預言者たちの中には、だれも罪がないと主張した者はいない。神に最も近く生きた人々、知っていて悪い行いをするよりはいのちを犠牲にしようとする人々、神が聖なる光と権能をもって賞賛した人々は、自分たちの性質の罪深さを告白してきた。彼らは自分自身に信頼せず、自分の義を主張せず、キリストの義を深く信頼した。 AA 1570.4
キリストを見る者たちはみな、このようになる。イエスに近づけば近づくほど、そして、キリストのご品性の純潔さが更にはっきり認められるようになるほど、ますます罪のひどい罪深さを明らかに見るようになり、われわれ自身を高める気持ちはますます消えていく。魂は神を求めて絶えず手を伸ばし、罪の悲痛な告白を絶えず、まじめにささげて、神のみ前に心を謙虚にする。クリスチャン経験において1歩進むごとに、われわれの悔い改めは深まる。われわれはキリストによる以外に満足はないことを知り、使徒パウロの名白をわれわれもするのである。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている」。「わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである」(ローマ7:18、ガラテヤ6:14)。 AA 1570.5
記録天使に神の民の聖なる苦闘と戦いの歴史を書いてもらおう。神の民らの祈りと涙を綴ってもらおう。そして、「わたしに罪はない、わたしはきよい」と、人の口から断言して神のみ名を汚さないようにしよう。きよめられたくちびるは、そのように倣慢な言葉を決して発することはしない。 AA 1570.6
使徒パウロは第三の天にあげられて、言葉にあらわせなかったことを見たり、聞かされていたが、なお、彼はたかぶらずに言った、「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである」 (ピリピ3:12)。天使たちには、信仰のよき戦いを戦いぬいたパウロの勝利について書いてもらおう。天に向けられたパウロの着実な歩みと、賞を目指して、ほかのことをすべて無価値なものと見なしている彼を天の住民たちに喜んでもらおう。天使たちはパウロの勝利を喜んで語るが、パウロは自分の成果を誇らない。パウロの態度は、キリストに従う者がみな、不死の冠を得るために戦いながらひたすら前進する時にとらねばならない態度である。 AA 1570.7
きよらかさを声高く公言したい気持ちになる人たちには、神の律法の鏡の中を見させよう。遠大な律法の要求と、心の中の思いや意図を見分ける律法の働きを知ったなら、彼らは罪のないことを誇ることはないであろう。ヨハネは自分自身を兄弟たちから離れたものとしないで、こう言っている、「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない」。「もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない」。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Ⅰヨハネ1:8、10、9)。 AA 1571.1
きよいと自称する者、彼らのすべてを主のものだと断言する者、神のみ約束を受ける権利があると主張する者、そう言いながら神の律法に従うことを拒んでいる者たちがいる。こうした律法の違反者たちは、神の子らに約束されている事を何でも要求するが、これは彼らの側の推量に過ぎない。なぜならヨハネは、神に対する真の愛は十戒のすべてを守ることにあらわされる、と述べているからである。真理の理論を信じ、キリストに信仰の告白をし、イエスが詐欺師ではないことや、聖書の宗教は巧妙に考案された作り話ではないことを信じるだけでは十分でない。「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである」と、ヨハネは書いた。「神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます」(Ⅰヨハネ2:4、5、3:24)。 AA 1571.2
ヨハネは、従順によって救いを得るべきだと教えているのではなく、従順が信仰と愛の実であると教えた。「あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である」と、彼は言った(Ⅰヨハネ3:5、6)。もしわれわれがキリストにおり、神の愛が心に宿っているならば、われわれの感情、思想、行動は神のみこころに一致し、きよめられた心は、神の律法の教えに調和する。 AA 1571.3
神の戒めに従おうと努めながら、喜びや平安のない人が多い。彼らの経験に喜びや平安が欠けているのは、信仰を働かさないからである。彼らはあたかも、塩の土地や焼けつく荒野を歩いているかのようである。彼らは多くのことを求めることができるのに、ほとんど求めない。神の約束には制限がないのである。このような人たちは、真理に従うことによって与えられるきよめを正しく示していない。主はご自分のむすこ、娘たちのすべてを幸福で、平和にみち、従順なものにさせて下さる。信者は信仰を働かせることによって、これらの祝福を受けるようになる。信仰によって、品性の欠陥がすべて補われるのであり、すべての不潔なものがきよめられ、欠点がなおされ、長所がのばされるのである。 AA 1571.4
祈りは、罪との戦いとクリスチャン品性の発達における成功の手段として、天が定めたものである。信仰の祈りにこたえて与えられる神の力は、願い求めるすべてのことを嘆願者の心の中に成就する。われわれは、罪のゆるしを、聖霊を、キリストのような性質を、主の働きをなすための知恵と力を、また主が約束された賜物を、求めることができる。そして、それらは「与えられる」と約束されているのである。 AA 1571.5
モーセが神の栄光の住居となるはずのすばらしい建物の型を見たのは、神と共に山の中にいた時であった。われわれが人類に対する神の輝かしい理想を黙想するのは、神のおられる山、ひそかな神との交 わりの場所である。各時代にわたり、天との交わりを通して、神はその子らの心に恵みの教理を少しずつ明らかにされ、子らのための目的を実行されてきた。真理をおさずけになる神の方法は、「主はあしたの光のように必ず現れいで」ということばに説明されている(ホセア6:3)。神が光をそそぐことのできるところに身を置く者は、いわば夜明けの薄暗さから真昼の豊かな光の中に進むのである。 AA 1571.6
真のきよめは完全な愛、完全な従順、神のみこころへの完全な一致を意味する。われわれは真理に従うことによって神へときよめられる。われわれの良心は、死んだ働きから生きた神に仕えるためにきよめられなければならない。われわれはまだ完全ではない。しかし利己心と罪のもつれから切り離されて、完全へと進むことはわれわれの特権である。大きな可能性、高くきよらかな完成がすべての者の手の届くところに置かれている。 AA 1572.1
この現代の世において、多くの者たちがきよい生活にもっと大きな進歩を見せない理由は、彼らがしようと思う程度にしか神のみこころを解釈していないからである。自分たちの望み通りにしていながら、彼らは神のみこころに従っているとうぬぼれている。このような人々は自己との戦いがない。また、その他、快楽や安楽を求める利己的な願いとの戦いに一時の間、うまく成功している者たちもいる。彼らは誠実で熱心であるが、長びく努力、日ごとの死、絶え間ない不安に疲れてくる。怠惰が心を奪い、自己に死ぬことが拒絶されているようである。そして、彼らはものうい目を閉じ、誘惑の力に抵抗せずに、それに屈してしまう。 AA 1572.2
神のみことばに示されている命令には、悪と妥協するための余地がない。神のみ子は、すべての人たちをご自身のもとに引き寄せることがおできになることを証明された。主はこの世を寝かしつけるために来られたのではなく、神の都の門にたどり着こうとする者がみな通らねばならない狭い道を示すために来られた。主の子らは主が導かれる道をたどらなければならない。どんなに気楽さや自己放縦を犠牲にしても、どんなに労働や苦難をかけても、彼らは自己との絶えまない戦いを続けなければならない。 AA 1572.3
人が神にささげることのできる最高の讃美は、神がお用いになることのできる聖別された水路となることである。時は永遠に向かって急速に進んでいる。神のものを自分でとっておいてはならない。祝福がなければさずけられないが、拒めば必ず損失をこうむるものを神から拒んではならない。神は全心を求めておられる。それを神にささげなさい。それは、神に創造されて、あがなわれたものだから、神のちのである。神はあなたの知性を求めておられる。それを神にささげなさい。それは神のものである。神はあなたの金銭を求めておられる。それを神にささげなさい。それは神のものである。「あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」(Ⅰコリント6:19、20)。神はきよめられた心に忠誠の誓いを求めておられる。その心は、愛によって働く信仰を実践することにより、神に奉仕するために準備されていろものである。神はわれわれの前に最高の理想、完全さえも掲げてくださる。神はご臨在によって絶対に、また完全にわれわれのものとなって下さると同様に、われわれにもこの世において完全に神のものとなるよう求めておられる。 AA 1572.4
あなたがたに関する「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」(Ⅰテサロニケ4:3)。あなたがたもそう願っているだろうか。あなたがたの罪は山のようになっているかもしれないが、十字架につけられ、よみがえられた救い主のいさおしにすがって、へりくだり、罪を告白するならば、神はあなたがたをゆるし、あらゆる不義からきよめて下さる。神は神のおきてに全く一致するよう要求なさっている。このおきては、もっときよくなれ、もっときよくなれと語りかける神のみ声のこだまである。キリストの恵みに満たされるよう望みなさい。キリストの義を求める切なる願いで心を満たそう。神のみことばが宣べる義は平和をつくり出し、とこしえの平穏と信頼をもたらすのである。 AA 1572.5
あなたは神を慕うにつれて、その恵みの無尽蔵の 富をますます知るようになる。この富について瞑想すると、この富があなたの手にはいり、キリストの犠牲の功績と、その義の擁護と、その知恵の豊かさと、そしてあなたを天父の前に「しみもなくきずもな」い者として差し出して下さるみ力とが明らかになる(Ⅱペテロ3:14)。 AA 1572.6