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清めの実例 GC 1824

聖書のいう清めを経験する者は、謙遜の精神をあらわす。彼らは、モーセのように、聖なるお方のおそるべき威光をながめ、無限のお方の純潔と崇高な完全さと比べて自分たちの無価値なことを認めるのである。 GC 1824.4

預言者ダニエルは、真の清めの実例である。彼の長い一生は、主のための気高い奉仕に満ちていた。彼は、神に「大いに愛せられる人」であった(ダニエル10:11)。この栄誉にあずかった預言者は、しかし自分の純潔と清さを主張しないで、自分を真に罪深いイスラエルの1人とみなし、自国民のために神の前で懇願した。 GC 1824.5

「われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。」「われわれは罪を犯し、よこしまなふるまいをしました。」ダニエルは「こう言って祈り、かつわが罪とわが民の罪をざんげ」したのである。そして、後に、神のみ子が現れて、彼に教えをさずけられた時、「わが顔の輝きは恐ろしく変って、全く力がなくなった」とダニエルは言っている(ダニエル9:18、15、20、10:8)。 GC 1824.6

ヨブは、つむじ風の中から主の声を聞いた時に、「それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」と叫んだ(ヨブ42:6)。イザヤは、主の栄光を見、ケルビムが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主」と呼ばわるのを聞いて、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と叫んだ(イザヤ6:3、5)。パウロは、第三の天にまで引き上げられ、人間には語ることのできない言葉を聞いた後、自分のことを、「聖徒たちのうちで最も小さい者である」と言っている(Ⅱコリント12:2~4参照。エペソ3:8)。また、かつてはイエスの胸によりかかった愛弟子ヨハネは、主の栄光に接した時、その足もとに倒れて死人のようになった(黙示録1:17参照)。 GC 1824.7

カルバリーの十字架の影を歩くものには、自分を高めたり、自分はもはや罪を犯さないなどと誇ったりすることはあり得ない。彼らは、自分たちの罪が、神のみ子の心臓を破裂させるほどの苦悩を引き起こしたことを感じる。そしてこの思いが、彼らをへりくだらせる。イエスに最も近く生活する者が、人間の弱さと罪深さを最もはっきりと認める。そして自分たちの唯一の希望を、十字架につけられ復活された救い主の功績に置くのである。 GC 1824.8

現在、宗教界において注目を集めている清めには、自己賞揚の精神と神の律法の無視とが伴っており、このことは、それが聖書の宗教とは異なったものであることを示している。その主唱者たちは、清めは瞬間敵な業で、信仰だけによって、完全な清めに到達すると教えるのである。彼らは、「ただ信じなさい。そうすれば、祝福が与えられる」と言う。 GC 1825.1

これを受ける者はなんの努力もしないでよいと思っている。それとともに、彼らは、神の律法の権威を拒否し、自分たちは戒めを守る義務から解放されたと主張する。しかし、神の性質とみ旨の表現であり、何が神のみこころにかなうかを示している原則に調和まずして、人間は、神のみこころと品性とに一致して清くなることができるであろうか。 GC 1825.2