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重大な危険 GC 1844

世俗の習慣に従うならば、教会が世俗化する。それは決して世俗をキリストに改宗させることにはならない。罪になれてくると、必然的に、それがいとわしくなくなってくる。サタンのしもべたちと交わるものは、やがて、彼らの主人をも恐れなくなる。宮廷におけるダニエルのように、われわれも、義務を遂行するにあたって試練にあう時には、神の保護を受けることを確信してよいのであるが、しかし自分で誘惑に身をさらすならば、おそかれ早かれ、倒れることになるのである。 GC 1844.5

サタンはしばしば、われわれが、彼の支配下にある人物だとは思いもしないような人々を用いて、実に巧妙に働きかける。才能や教育がある人々は、神を恐れる心がなくても、これらの特質がそれを補い、神の恵みに浴させるかのように、賞賛され、栄誉を帰せられている。才能と教養は、それ自体、神の賜物である。しかしそれらが、信心の代用にされるならば、そして、魂を神に近づけるかわりに神から引き離すならば、その時それらはのろいとなり、わなとなるのである。礼儀正しく見えることや洗練された感じを与えることはみな、何かの意味でキリストに関係するものである、と考えている人が多い。しかし、これほど大きなまちがいはない。こうした特質は、真の宗教のために強力な影響を及ぼすものであるから、すべてのキリスト者の品性の美点でなければならない。しかし、それらは、神にささげられねばならない。さもないと、それらもまた、悪のための力となってしまう。一般に不道 徳と見なされている行為はあえてしないところの、知的で教養があり、礼儀正しい人が多くいるが、このような人々は、サタンの手にある洗練された器にすぎない。彼の狡猾で欺瞞的な影響と模範は、キリストの働きにとって、無知で教養のない人々よりはるかに危険である。 GC 1844.6

ソロモンは、熱心な祈りと神への依存によって、世界の驚きと賞賛を引き起こしたところの知恵の持ち主になった。ところが、彼が力の源である神から離れて、自分の力に頼って進んだ時に、彼は誘惑のとりことなった。その時、この最も賢い王に授けられていた驚くべき能力は、彼を、魂の敵サタンの最も強力な手先としたにすぎなかった。 GC 1845.1