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法王教との戦い GC 1628

再びウィクリフは、ローマの侵略に対して英国王の権利を擁護するために召された。彼は国王の大使に任命されてオランダに2年間滞在し、法王の使節たちと会談した。ここで彼は、フランス、イタリア、スペインの聖職者たちと交わり、事件の背後にあるものを見、英国では知ることができなかった多くのことに関する知識を得ることができた。彼は後年の働きに役立つことを多く学んだ。法王庁から遣わされた代表者たちを見て、彼は法王制の真の性格と目的とを見抜いた。彼は英国に帰り、以前からの主張をさらに公然と、そして熱心にくり返し、貪欲と高慢と欺瞞とがローマの神であると宣言した。 GC 1628.4

彼は自分の書いたパンフレットの中で、法王とその集金人たちについて次のように言った。「彼らは、わが国の貧者の糧を奪い、秘蹟やその他の霊的事物のために、年々王から数千マルクを奪い取っている。これは聖職売買というのろうべき異端てある。しかも全キリスト教界をこの異端に同意させ支持させている。 GC 1628.5

たしかに、わが国には山のように財宝があるが、この高慢な世俗的司祭である集金人のほかには、だれもそれを取ったものはないのだ。そして彼のためにやがて、山のような宝はなくなってしまうであろう。なぜなら彼はわが国から常に金を奪い去り、その代わりに与えるものといっては、聖職売買に対する神ののろいの他、何もないのだから。」3 GC 1629.1

英国に帰ると間もなく、ウィクリフは王から、ラタワースの教区牧師に任じられた。このことは王が彼の率直な発言を、少なくとも不快に思っていなかった証拠であった。ウィクリフの感化は、国民の信仰を形成するのと同様に、宮廷の活動の方向をも決定するものとなった。 GC 1629.2

法王の怒りはすぐに彼に向けられた、大学と王と高位聖職者たちとにあてられた3つの教書が英国に送られ、異端の教師を沈黙させるために迅速かつ断固たる処置を取るよう命じた。4 GC 1629.3

しかし司教たちは熱心のあまり、教書の到着に先だって、審理のためにウィクリフを呼び出していた。けれども王国内で最も勢力のある2人の王子が、彼に同伴して法廷に行った。そして人々は、建物を取り巻いたり内部に乱入したりして裁判官たちを威嚇したので、裁判は一時中止され、彼は安全にそこを去ることを許された。その後しばらくして、高位聖職者たちがウィクリフを退けるために動かそうとしていた老齢のエドワード3世が死去し、ウィクリフのかつての保護者が王国を統治することになった。 GC 1629.4

しかし教書の到着によって、異端者を捕らえて投獄せよという厳命が全英国に出された。こうした処置は、直接処刑台につながっていた。ウィクリフかすぐにローマのふくしゅうの犠牲になることは確かだと思われた。しかし、昔の人に「恐れてはならない。わたしはあなたの盾である」(創世記15:1)と言われた神は、ご自分のしもべを保護するために、もう1度手を伸べられた。改革者ではなくて、彼の死を命じた法王か死んだのである。グレゴリー11世は死んだ。そしてウィクリフ裁判のために集まっていた聖職者たちは解散した。 GC 1629.5