宗教改革擁護のために宣言された最も高潔な証言の一つは、一五二九年にシュパイエルの国会で、ドイツのキリスト教諸侯が提出した『抗議書』であった。これら神の人々の勇気と信仰と堅固な態度は、その後の幾世代にわたって、思想と良心の自由を確保した。彼らの『抗議書』が、改革教会にプロテスタントという名称を与えた。その原則は、「プロテスタント主義の真髄そのもの」である。 GCJap 227.1
宗教改革にとって、暗く険悪な時代が到来していた。ウォルムスの勅令によってルターは破門され、彼の教義を教えたり信じたりすることは禁じられていたけれども、これまでのところ、ドイツにおいては、宗教上の自由が保たれていた。神の摂理によって、真理に反対する勢力が抑えられていた。カール五世は、宗教改革を鎮圧しようとしたが、打撃を加えようとすると、それを他へ向けねばならなくなることがしばしばあった。幾度となく、ローマに反抗するすべてのものは、直ちに打ち滅ぼされることが不可避に思われた。しかし、そうした危機に、トルコの軍勢が東の国境にあらわれたり、あるいは、フランス国王、または法王自身でさえも、皇帝の勢力の増大をねたんで、戦いをいどんできたのである。こうして、諸国の紛争と騒乱の中で、宗教改革は力をつけ、発展していくことができた。 GCJap 227.2
しかし、ついに法王側が彼らの紛争をやめ、力を合わせて改革者たちにあたってきた。一五二六年のシュパイエルの議会は、一般教会会議が開かれるまでは宗教に関して各国に完全な自由を与えていた。しかし、このような譲歩を必要としたところの危険が過ぎ去るやいなや、皇帝は、異端撲滅を目的とした第二回シュパイエル議会を一五二九年に開いた。諸侯たちは、できるなら平和的な方法で、改革に反対するように誘われるのであった。しかし、それが失敗すれば、カールは剣に訴える用意をしていた。 GCJap 228.1
法王側は勝ち誇った。彼らは大勢でシュパイエルに乗り込み、改革者と支持者たちのすべてに対して、公然と敵意をあらわした。メランヒトンは言った。「われわれは、世ののろいを受け、ちりのように思われている。しかし、キリストは、彼のあわれな民を眺め、保護されるのである」。議会に出席中の、福音を信じる諸侯は、彼らの邸宅において福音の説教をすることさえ禁じられた。しかし、シュパイエルの人々は、神のみ言葉に渇いていた。そこで、禁じられていたにもかかわらず、幾千という人々がザクセン選挙侯の礼拝堂で開かれた集会に集まった。 GCJap 228.2
これは危機を早めた。良心の自由を許した決議が大混乱を引き起こしたために、皇帝はそれを撤廃する、という勅令が議会に対して発表された。この専横な行為は、福音的キリスト者たちの憤りと驚きを引き起こした。ある人は、「キリストは、ふたたび、カヤパとピラトの手に落ちた」と言った。ローマ側は、さらに猛威をふるった。ある頑迷な法王教徒は言った。「トルコ人は、ルター派の者よりはよい。なぜならば、トルコ人は断食を守っているが、ルター派はそれを破っている。われわれが、神の聖書か教会の昔からの誤りかを選ばなければならないとすれば、われわれは、前者を拒否する」。メランヒトンは、「ファーベルは、毎日議会全体の前で、われわれ福音を信じる者に、新しい石を投げつける」と言った。 GCJap 228.3