しかし、最初の清教徒たちとは全く目的を異にした者が、続々とアメリカの岸に引かれてやってきた。初期の信仰と純潔は、広く感化力を及ぼしていたけれども、ただ世俗の利益だけを求める者の数が増加するにつれて、その影響は、次第に衰えていった。 GCJap 341.1
初期の移住者が採用した、教会員だけが投票権を持ち、あるいは政府の職につくことができるという規則は、有害きわまる結果を生じた。この方策は、州の純潔を保つために採用されたのであったが、教会を腐敗させることになった。信仰の告白が、投票と公職につく条件であったために、多くの者が、心の変化なしに、ただ世俗的目的のために教会に加わった。こうして教会は、多くの悔い改めていない人々で満たされるようになった。そして、聖職者の中にさえ、誤った教義を保持するだけでなく、聖霊の改新の力を知らない者もいるようになった。こうして、コンスタンチヌスの時代から現代に至るまで、教会歴史にしばしば見られた悪い結果が、ふたたびあらわれたのである。すなわち、国家の援助によって教会を盛り立て、また、キリストの福音を支持するために俗権に訴えようとすることである。しかし、そのキリストは、「わたしの国はこの世のものではない」と宣言された(ヨハネ18章36節)。教会と国家との結合は、たとえどんなにささいなものであっても、世俗を教会に近づけるように見えながら、実際は、教会を世俗に近づけることにほかならないのである。 GCJap 341.2
ロビンソンとロージャー・ウィリアムスが堂々と主張した大原則、すなわち、真理は漸進的なものであって、キリスト者は神の聖書から輝き出る光をみな、いつでも信じる用意をしているべきである、ということを彼らの子孫たちは忘れていた。ヨーロッパの教会も同様であるが、アメリカのプロテスタント教会は、宗教改革の恩恵をあれほどまでに受けていながら、改革を推し進めることに失敗した。時おり、忠実な人々がわずかながら立ち上がって、新しい真理を宣言し、旧来の誤りを指摘したりしたのであるが、大部分の人々はキリストの時代のユダヤ人、あるいは、ルターの時代のカトリック教会の人々のように、先祖たちが信じたように信じ、彼らが生活したように生きることで満足した。そのために、宗教はふたたび形式主義に堕してしまった。そして、教会が神のみ言葉の光の中を歩き続けたならば、当然捨て去ってしまったはずの誤りや迷信が、そのまま残存し固守された。こうして、宗教改革によって奮い立った精神が次第に衰えて、ルター時代のカトリック教会とほとんど同様の大改革が、プロテスタント教会に必要となるまでになった。 GCJap 342.1
同様の世俗化と霊的無感覚、人間の意見に対する同様の尊敬、神のみ言葉の教えの代わりに、人間の説の代用が見られるのであった。 GCJap 342.2
一九世紀の初期において、聖書が広く配布され、大いなる光が世界に輝いたのであるが、啓示された真理の知識に対応する前進、あるいは、体験的宗教の前進はなかった。サタンは、以前のように神の言葉を人々から隠しておくことはできなかった。聖書はだれでも手に入れられるようになった。しかしサタンは、なおその目的を達成するために、多くの者にそれを低く評価するようにさせた。人々は、聖書の研究を怠り、こうして、相変わらず誤った解釈を信じ、聖書に根拠のない教義を固守するのであった。 GCJap 342.3
サタンは、迫害によって真理を粉砕することができなかったのを見て、大背教とローマ教会の出現の原因となったところの妥協策を、ふたたび採用した。サタンはクリスチャンを、今度は異教徒ではなくて、世俗の事物に執着して、刻んだ像を拝むのと同様に偶像礼拝者となってしまった者たちと、結合させようとした。こうした結合の結果は、昔と同様に有害なものであった。宗教の仮面のもとに、虚栄とぜいたくがほしいままに行われて、教会は堕落した。サタンは聖書の教義をゆがめ続け、無数の者を滅びに陥れるような伝説が、深く根を下ろしつつあった。教会は、「聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰」を主張する代わりに、こうした伝説を支持し、擁護した。こうして、宗教改革者たちの非常な努力と苦難によって確立された原則が、崩壊したのである。 GCJap 343.1