キリストが、「罪を負うためではなしに二度目に現われて、救を与えられる」のは、「彼を待ち望んでいる人々に」である(ヘブル9章28節)。救い主の誕生の知らせと同様に、キリストの再臨の知らせも、人々の宗教的指導者に託されなかった。彼らは、神との接触を保つことをせず、天からの光を拒んでしまった。それゆえに彼らは、使徒パウロが描いた人々の中に入っていなかった。「しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない」(テサロニケ第一・5章4、5節)。 GCJap 362.1
シオンの城壁の上の見張り人たちは、救い主の来臨の知らせを最初に認め、最初に声をあげてその近いことを宣言し、人々に、その来臨のための準備をするように最初に警告を発すべきであった。しかし彼らは、安易な気持ちで平穏無事の夢をむさぼっていた。そして人々は、罪の中で眠っていた。イエスは彼の教会が、葉ばかり数多く茂っているが、貴い実のなっていない、実のない、いちじくの木のような状態であるのを見られた。宗教の形式は遵守してそれを誇っていたが、真の謙遜、悔い改め、信仰の精神は欠けていた。 GCJap 362.2
実はこれらだけが、神に喜ばれる礼拝であったのである。聖霊の実の代わりに、高慢、形式主義、虚栄、利己心、圧迫などがあらわれていた。背信した教会は、時のしるしに対して目を閉じてしまった。神は、彼らを捨てたり、誠実を曲げたりなさらなかった。しかし、彼らは神から離れ、神の愛から離反したのである。彼らが条件に従うことを拒んだ時に、神の約束は、彼らに果たされなかったのである。 GCJap 362.3
神がお与えになる光と特権を、感謝して受けて活用するようにしないならば、必ずこのようになる。教会が、すべての光を受け入れ、啓示されるすべての義務を行って、神の摂理の導きに従っていかないならば、宗教は必ず形式化して、堕落し、生きた敬神の精神は失われるのである。このことは、教会の歴史において、繰り返し起こった。神は、受けた祝福と特権に相応する信仰と服従の行為を、神の民に要求される。服従は犠牲を要求し、十字架を伴っている。多くの自称キリスト信者が、天からの光を受けることを拒み、昔のユダヤ人のように、神のおとずれの時を知らなかったのは、このためである(ルカ19章44節参照)。彼らが高慢不信であったために、神は彼らを素通りして、ベツレヘムの羊飼いや東方の賢者たちのように、示されたすべての光に心を留めていた人々に、神の真理をあらわされたのである。 GCJap 363.1