しかし、エルサレムに下った刑罰に関する救い主の預言は、もう一つの成就を見なければならない。あの恐ろしいエルサレム滅亡も、その出来事のほんのかすかな影にしかすぎないのである。すなわち、われわれは、選ばれた都の滅亡の中に、神の憐れみを拒み、神の律法を踏みにじってきた世界の運命を見るのである。 この地上で、幾世紀の永きにわたって罪を犯し続けてきた悲惨な人類の歴史は、まことに暗いものである。それを考える時、だれしも心痛み、気はなえてしまう。神の権威を拒否する結果は、実に恐ろしいことである。 GCJap 42.2
しかし、さらに暗い光景が未来に関する啓示の中に示されている。すなわち、混乱、争闘、革命、「騒々しい声と血まみれの衣を持った戦士の戦い」(イザヤ書9章5節、英語訳)といった過去の歴史も、神の霊の抑制力が悪人たちから全く取り除かれ、人間の欲情とサタンの怒りを止めるものが何もなくなるその日の恐怖と比べる時、ものの数ではないのである。その時、世界は、これまでかつてなかったほどに、サタンの支配の結果を見るのである。 GCJap 43.1
しかし、その日、エルサレムの滅亡の時と同じように、生命の書に記されたすべての神の民は救われる(イザヤ書4章3、4節参照)。キリストは、忠実な者を集めるためにもう一度来ると言われた。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マタイ24章30、31節)。その時、福音に従わない者は、彼の口の息をもって殺され、その来臨の輝きによって滅ぼされる(テサロニケ第二・2章8節参照)。昔のイスラエルと同様に、悪人は、自分自身を滅ぼし、自分の不義のために倒れる。彼らは罪の生活によって、神と一致した生活から遠く離れ、彼らの性質は悪に染まってしまった。そのため、神の栄光のあらわれは、彼らにとって焼き尽くす火となるのである。 GCJap 43.2
われわれは、キリストの言葉に示された教訓をなおざりにしないように注意しなければならない。キリストは、エルサレムの滅亡について弟子たちに警告を与 え、彼らが逃れることができるように、滅亡の近いことを示すしるしをお与えになった。そのように、彼は、最後の滅亡の日について世界に警告を発し、すべての者がきたるべき怒りから逃れるように、その近いことを示すしるしをお与えになった。「また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み」とイエスは言われた(ルカ2章25節、マタイ24章29節、マルコ13章24~26節、黙示録6章12~17節参照)。 GCJap 43.3
キリストの再臨に関するこうしたしるしを見る者は、「そのことが戸口まで近づいている」ことを知らなければならない(マタイ24章33節、英語訳)。「目をさましていなさい」と彼は勧めておられる(マルコ13章35節)。この警告を心にとめている者は、暗黒のうちに取り残され、その日が不意に彼らを襲うことはない。しかし、目を覚ましていない者にとっては、「主の日は盗人が夜くるように来る」のである(テサロニケ第一・5章2節、3~5節参照)。 GCJap 44.1
今、世界は、ユダヤ人がエルサレムに関する救い主の警告を受け入れなかったのと同様に、現代のためのメッセージを信じようとしないのである。しかし、いずれにしても、神の日は、神を信じない者に不意にやってくる。生活はいつもと変わりなく続き、人々は快楽にふけり、事業や商売や金もうけに熱中し、宗教家が、世界の進歩と知識の増加を賞賛し、人々が偽りの安定に眠りをむさぼっている時、その時に、真夜中の盗人が不用意な家に忍び込むように、突然、滅亡が軽率で神を信じない人々に臨む。「そして、それからのがれることは決してできない」(テサロニケ第一・5章3節)。 GCJap 44.2