この警告を宣言した人々は、正しい時に正しい使命を伝えたのである。しかし、初期の弟子たちが、ダニエル書9章の預言に基づいて「時は満ちた、神の国は近づいた」と宣言したが、その同じ聖句の中にメシヤの死が預言されているのを理解することができなかったように、ミラーと彼の仲間も、ダニエル書8章14節と黙示録15章7節に基づいた使命を伝えながら、主の再臨前に伝えなければならない他の使命が、まだ黙示録14章に示されているのを悟ることができなかった。弟子たちが、七〇週の終わりに建設される王国について誤ったように、再臨信徒たちは、二三〇〇日の終結に起こる出来事について誤っていたのである。両方とも、一般の誤りを信じ、あるいはそれに固執したことが、真理に対して心を盲目にした。両者とも、神が伝えることを望まれた使命を布告して神のみこころを行ったが、その使命を誤って解釈して、失望を味わった。 GCJap 405.1
しかし、神は、審判の警告をそのまま伝えることをお許しになって、ご自分の恵み深い御目的を果たされた。大いなる日が近づいていた。そして神は摂理のうちに、人々に彼らの心の状態を示すために、特定の時に関する試験をお与えになった。使命は、教会を試し、清めるためのものであった。彼らは、彼らの愛着がこの世にあるのか、それともキリストと天にあるのかを、悟らせられるのであった。彼らは救い主を愛すると言っていた。その愛を、今、証明しなければならなかった。彼らは、快く世俗の希望と野心を捨てて、主の再臨を歓迎したであろうか。この使命は、彼らの真の霊的状態を彼らに認めさせるためであった。それは、彼らが悔い改めて謙遜に主を求めるようになるために、恵みのうちに与えられたのであった。 GCJap 405.2
失望は、彼らが伝えた使命を彼ら自身誤って解釈したことの結果であったが、しかしそれもまた、良いように変えられた。それは、警告を信じると言った人々の心を試すものとなった。失望に陥った時に、彼らは、無分別に自分たちの経験を放棄し、神の言葉に対する確信を捨てるであろうか。それとも祈りと謙遜な心をもって、預言のどういう点が理解できていなかったかを知ろうと努めるであろうか。どれくらい多くの者が、恐怖や衝動や興奮にかられて行動していたことであろうか。どれくらい多くの者が、どっちつかずで半信半疑であったことだろうか。主の出現を喜ぶと言った者は、非常に多かった。世の嘲笑と非難を受け、遅延と失望の試練にあう時に、彼らは、信仰を捨てるであろうか。彼らは、神が彼らを扱われる方法が、すぐに理解できないからといって、神の言葉の明白な証言に支持された真理を捨ててしまうであろうか。 GCJap 406.1
この試練は、真の信仰をもって、み言葉と神の霊の教えであると信じている事柄に従っていた人々の、その強さを明らかにするのであった。聖書を聖書自身の注解者とせずに、人間の説や解釈を信じることの危険が、この経験によって、初めて教えられるのであった。信仰の子供たちにとって、彼らの誤りからくる困惑と悲嘆は、必要な矯正を行うのであった。彼らは、預言の言葉の、いっそう厳密な研究へと導かれるのであった。彼らは、自分たちの信仰の基礎をもっと注意深く調べ、一般に広くキリスト教界において受け入れられたものであっても、真理の聖書に基礎を置かないものは、みな拒否するように教えられるのであった。 GCJap 406.2
こうした信者たちに、最初の弟子たちの場合と同様に、試練の時には理解できなかったことが、後に明らかにされるのであった。彼らが、「主が彼になさったことの結末」を見る時、彼らは、誤りの結果試練を受けたとはいえ、神の彼らに対する愛の御目的は着実に成就していたことを知るのであった。彼らは、神が「いかに慈愛とあわれみとに富」んでおられるかということ、そして「主のすべての道はその契約とあかしとを守る者にはいつくしみであり、まことである」ということを、尊い体験によって学ぶのであった。 GCJap 407.1