しかし、人々は、まだ主に会う準備ができていなかった。まだ、彼らのためになされねばならぬ準備の働きがあった。彼らは、まず光を受けて、天にある神の宮に心を向けねばならなかった。そして彼らが、そこで奉仕しておられる彼らの大祭司に、信仰によって従っていく時に、新しい義務が示されるのであった。もう一つの警告と教えの使命が、教会に与えられるのであった。 GCJap 487.1
預言者は語っている。「その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる」(マラキ書3章2、3節)。天の聖所におけるキリストのとりなしがやむ時、地上に住んでいる人々は、聖なる神の前で、仲保者なしに立たなければならない。彼らの着物は汚れがなく、彼らの品性は、血をそそがれて罪から清まっていなければならない。キリストの恵みと、彼ら自身の熱心な努力とによって、彼らは悪との戦いの勝利者とならなければならない。天で調査審判が行われ、悔い改めた罪人の罪が聖所から除かれているその間に、地上の神の民の間では、清めの特別な働き、すなわち罪の除去が行われなければならない。この働きは、黙示録14章の使命の中にさらに明瞭に示されている。 GCJap 487.2
この働きが成し遂げられると、キリストの弟子たちは、主の再臨を迎える準備ができるのである。「その時ユダとエルサレムとのささげ物は、昔の日のように、また先の年のように主に喜ばれる」(マラキ書3章4節)。その時、主が再臨されてご自分のもとに受け入れられる教会は、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、……栄光の姿の教会」である(エペソ5章27節)。また、その教会は、「しののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者」である(雅歌6章10節)。 GCJap 488.1