また、神の律法の軽視や拒否から生じるところの、誤った聖化論が、今日の宗教運動において顕著な位置を占めている。これらの理論は、教義的に偽りであり、実際的結果においても危険である。 GCJap 537.1
そして、それらの説が一般に歓迎されているという事実を見る時、この点についての聖書の教えをすべての者がはっきり理解することが、なおいっそう必要となる。 GCJap 537.2
真の清め(聖化)は、聖書が教えている教義である。使徒パウロは、テサロニケ教会への手紙の中で次のように言っている。「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」。そして、「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように」と祈っている(テサロニケ第一・4章3節、5章23節)。聖書は、清めとは何であって、どのようにしてそれに到達できるかを、はっきりと教えている。救い主は、弟子たちのために祈って、「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」と言われた(ヨハネ17章17、19節参照)。使徒パウロは、信者たちに、「聖霊によってきよめられ」るようにと教えた(ローマ15章16節)。 GCJap 537.3
聖霊の働きは、何であろうか。イエスは、弟子たちに次のように言われた。「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネ16章13節)。詩篇記者も、「あなたのおきてはまことです」と言っている。神の言葉と聖霊によって、神の律法の中にあらわれている義の大原則が、人間に示される。そして、神の律法は、「聖であって、正しく、かつ善なるものであ」り、神の完全の写しであるから、その律法に従って形造られる品性も、清いものとなる。キリストは、このような品性の完全な模範である。「わたしがわたしの父のいましめを守った」「わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしている」と主は言われる(ヨハネ15章10節、8章29節)。キリストの弟子たちは、彼のようにならなければならない。神の恵みによって、神の聖なる律法の原則に調和した品性を形成しなければならない。これが聖書のいう清めである。 GCJap 537.4
この働きは、キリストを信じる信仰によってのみ達成されるもので、神の霊の内住の力によるのである。パウロは、信者たちに次のように勧告している。「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2章12、13節)。 GCJap 538.1
キリスト者も罪の誘惑は感じるが、しかし常にそれと戦い続ける。ここにおいて、キリストの援助が必要になる。人間の弱さが神の力と結合する。そして信仰は、「感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」と叫ぶのである(コリント第一・15章57節)。 GCJap 538.2
聖書は、清めの働きが、漸進的なものであることをはっきりと示している。罪人が悔い改めて、贖罪の血によって神と和解する時、キリスト者の生活は始まったばかりである。彼は、「完全を目ざして進」み、「キリストの満ちみちた徳の高さにまで」成長しなければならない。使徒パウロは言っている。「ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」(ピリピ3章13、14節)。ペテロは、聖書が教える清めへと到達するための段階を、われわれに提示している。「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。……そうすれば、決してあやまちに陥ることはない」(ペテロ第二・1章5~10節)。 GCJap 538.3