イエスのご命令によって、悪霊は今までとりついていた人々から離れ、彼らは平静と知性と温順さを取り戻して、救い主の足もとに静かに座っていた。しかし、悪霊たちは、豚の一群を海へと駆け下らせることを許された。そして、ガダラの住民たちは、キリストがお与えになった祝福よりこの損失のほうが重大だったので、天来の医師に退去することを願った。これは、サタンが引き起こそうと企てたことであった。彼らの損失をイエスのせいにして、人々に利己的恐怖心を起こさせ、彼の言葉を聞かせまいとしたのである。サタンは、損失や不幸や苦難を、自分と自分の手下たちで引き起こしておきながら、その当然の責めを負わず、常にそれをキリスト者のせいにして非難するのである。 GCJap 594.2
しかし、キリストの目的は妨害されなかった。彼は、利益のためにこれらの汚れた獣を飼育していたユダヤ人たちへの譴責として、悪霊が豚の群れを滅ぼすことを許された。もしキリストが、悪霊を抑制されなかったならば、彼らは、豚ばかりでなく、飼い主たちや持ち主たちをも海に投げこんだことであろう。飼い主たちと持ち主たちとが共に保護されたことは、キリストの力が彼らの救いのために、恵みのうちに働いたからにほかならなかった。さらに、この事件は、人間と動物の両方に対するサタンの残酷な力を弟子たちに目撃させるために、起こることを許されたのであった。救い主は、彼の弟子たちが、彼らの当面しなければならない敵をよく知って、その悪だくみに欺かれたり、敗北したりすることがないようにと望まれた。それとともに、その地方の人々が、サタンの束縛を砕いてその捕虜を解放なさるキリストの力を見ることが、彼のみこころであった。そして、イエスご自身は去られたけれども、驚くべき救いにあずかった人々は残り、彼らに恵みをほどこされたイエスの憐れみを宣べ伝えたのである。 GCJap 595.1
同様の例が、他にも聖書に記されている。スロ・フェニキヤの女の娘は、悪霊につかれて非常に苦しんでいたが、イエスはみ言葉によって悪霊を追い出された(マルコ7章26~30節参照)。「悪霊につかれた盲人で口のきけない人」(マタイ12章22節)。たびたび「火の中、水の中に投げ入れて、殺そうと」する口をきけなくする霊につかれた子供(マルコ9章17~27節)。安息日にカペナウムの会堂の静けさを破った「汚れた悪霊につかれた人」(ルカ4章33~36節)。これらの人はみな、憐れみ深い救い主にいやされたのである。ほとんどすべての場合、キリストは、一個の知性をもった実在としての悪霊に語りかけて、とりついている人から出て、今後苦しめないようにと命じられたのである。カペナウムで礼拝していた人々は、彼の偉大な力を見て、「驚いて、互に語り合って言った、『これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ』」(ルカ4章36節)。 GCJap 595.2
普通、悪霊につかれた者は非常に苦しむものとされているが、その例外もあった。超自然の力を得るために、サタンの影響力を歓迎する者がある。このような人々には、悪霊との戦いはもちろんない。この種の人々に、占いの霊につかれた者たち、すなわち、魔術師シモンや魔術師エルマ、また、ピリピでパウロとシラスのあとを追ってきた娘などがある。 GCJap 596.1