殉教者ティンダルは、死者の状態について次のように言明した。「わたしは、彼らがすでにキリストのような、あるいは、神に選ばれた天使たちのような、完全な栄光に入っているとは考えていないことを、はっきり申し上げる。わたしは信仰の上から、そうは思わないのである。なぜならば、もしそうであるとすると、肉体の復活を説くことは無駄であるとしか思われないからである」 GCJap 633.1
死ねば不死の祝福にあずかるという希望のために、聖書の復活の教理が一般に軽視されるようになったということは、否定できない事実である。アダム・クラーク博士は、この傾向について、次のように言った。 GCJap 633.2
「復活の教義は、現代よりは初期のキリスト者たちの間で、はるかに重要視されていたように思われる。これはどうしてであろうか。使徒たちは絶えずそれを力説し、それによって、熱心、従順、快活であるようにと、信者たちを激励していた。それだのに、今日の彼らの後継者たちは、そのことをほとんど言わない。使徒たちが説教したことを信者たちは信じた。われわれが説教することを、われわれの聴衆は信じるのである。福音の教義の中で、これほど強調されているものはない。しかるに、現代の説教のやり方の中で、これほど軽々しく扱われている教理は、ほかにないのである」 GCJap 633.3
このような状態が続いて、ついに、復活の輝かしい真理はほとんど隠され、キリスト教世界から見失われてしまった。こうして、ある指導的な宗教的著作家は、テサロニケ第一・4章13~18節のパウロの言葉を注解して、次のように言うのである。「主の再臨という疑わしい教理の代わりに、義人は祝福された不死が与えられるという教理が、実際にわれわれに慰めを与える。われわれが死ぬ時に主が来られるのである。われわれはそれを待ち望み、見守っていなければならない。死者は、すでに栄光に入っている。彼らは、審判と祝福を受けるためにラッパが鳴るのを待たないのである」 GCJap 634.1
しかし、イエスは、弟子たちのもとを去るにあたって、彼らがすぐにご自分のところに来るであろうとは言われなかった。「あなたがたのために、場所を用意しに行く」「そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」と彼は言われた(ヨハネ14章2、3節)。パウロはさらに次のように言っている。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」。そして、彼は、「これらの言葉をもって互に慰め合いなさい」とつけ加えている(テサロニケ第一・4章16~18節)。 GCJap 634.2
こうした慰めの言葉と、前に引用した普遍救済論者の牧師の言葉とは、なんと大きな相違があることであろう。後者は、死者がどんなに罪深くあっても、地上で息を引き取った時天使たちの間に迎え入れられたと言って、友を失って悲しむ人々を慰めた。しかし、パウロは、兄弟たちに、きたるべき主の再臨を示し、その時に、墓の束縛が解かれて、「キリストにあって死んだ人々」が永遠の生命によみがえると言っている。 GCJap 634.3