祈りのうちに神と格闘している者たちが、神の前に嘆願していると、見えないものから彼らをさえぎっていた幕が、ほとんど除かれたように思われる。天は、永遠の日のあけぼのに輝き、「あなたがたの忠誠を保ち続けよ。援助は与えられる」と言う言葉が、天使の歌のメロディーのように耳に聞こえる。全能の勝利者であられるキリストは、ご自分の疲れた兵士たちに、永遠の栄光の冠をさし出される。そして、彼の声が、開かれた門から聞こえてくる。「見よ、わたしはあなたがたと共にいる。恐れてはならない。わたしは、あなたがたのすべての悲しみを知っている。わたしは、あなたがたの悲しみをになった。あなたがたが戦っている敵は、わたしがすでに戦った敵なのだ。わたしはあなたがたのために戦った。そして、あなたがたは、わたしの名によって、勝ち得て余りあるのである」 GCJap 733.2
尊い救い主は、われわれが助けを必要とするちょうどその時に、助けをお送りになる。天への道は、彼の足跡によって清められている。われわれの足を傷つけるとげは、どれも彼の足を傷つけたものである。われわれが負わせられる十字架は、すべて、われわれに先立って彼が負われたものである。主は、魂に平和をもたらすための準備として、争闘が臨むことを許されるのである。悩みの時は、神の民にとって恐ろしい試練である。しかしそれは、すべての忠実な信者にとって、上を見上げ、主をとりまく約束のにじを信仰によって見る時である。 GCJap 733.3
「主にあがなわれた者は、歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、そのこうべに、とこしえの喜びをいただき、彼らは喜びと楽しみとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。『わたしこそあなたを慰める者だ。あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、草のようになるべき人の子を恐れるのか。……あなたの造り主、主を忘れて、なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。しえたげる者の憤りはどこにあるか。身をかがめている捕われ人は、すみやかに解かれて、死ぬことなく、穴にくだることなく、その食物はつきることがない。わたしは海をふるわせ、その波をなりどよめかすあなたの神、主である。その名を万軍の主という。わたしはわが言葉をあなたの口におき、わが手の陰にあなたを隠した』」(イザヤ書51章11~16節)。 GCJap 734.1
「それゆえ、苦しめる者、酒にではなく酔っている者よ、これを聞け。あなたの主、おのが民の訴えを弁護されるあなたの神、主はこう言われる、『見よ、わたしはよろめかす杯をあなたの手から取り除き、わが憤りの大杯を取り除いた。あなたは再びこれを飲むことはない。わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。彼らはさきにあなたにむかって言った、「身をかがめよ、われわれは越えていこう」と。そしてあなたはその背を地のようにし、ちまたのようにして、彼らの越えていくにまかせた』」(同51章21~23節)。 GCJap 734.2
神の目は、各時代を見通して、地上の勢力の総攻撃が起こる時神の民が直面しなければならない危機に注がれる。彼らは、捕らわれた流浪の民のように、飢えや暴力によって死ぬのではないかと恐れる。しかし、イスラエル人の前で紅海を分けられた聖なる神は、その大いなる力をあらわして、彼らを捕らわれの身から戻されるのである。「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ」(マラキ書3章17節)。この時、キリストの忠実な証人たちの血が流されたとしても、それは、殉教者の血のように神のために収穫をもたらすためにまかれる種とはならないのである。 GCJap 734.3
彼らの忠誠は、他の人々に真理を悟らせるあかしとはならない。なぜなら、強情な心は、寄せてくる憐れみの波を拒み続けて、それらが二度とかえってこないようにしてしまったからである。今義人が、むざむざ敵の餌食になるならば、それは暗黒の君の勝利になってしまう。そこで詩篇記者は、「主(は)悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠(される)」と言っている(詩篇27篇5節)。キリストも言われた。「さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、あなたのうしろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。見よ、主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる」(イザヤ書26章20、21節)。彼が来られるのを忍耐して待つ者たち、その名がいのちの書に記されている者たちの救出は、実に輝かしいものとなる。 GCJap 735.1