サタンは法王教の司祭や司教たちを促して、真理のみ言葉を誤謬や邪説、迷信などのつまらないものの下に隠しておこうとした。しかし、それは、暗黒時代の全期間を通じて、驚くべき方法で純粋に保たれた。それは、人間の印ではなくて、神の刻印を帯びている。人間は、聖書の簡単、明瞭な意味をあいまいにし、それ自体が矛盾しているものであるかのように思わせようとして、たゆまず努力してきた。 GCJap 80.3
しかし神のみ言葉は、荒れ狂う大海に浮かぶ箱舟のように、それをくつがえそうとする嵐にも動じないのである。金や銀の鉱脈は、鉱山の地中深くにあって、宝を発見しようとする者たちはみな掘らなければならないように、聖書にも真理の宝が隠されていて、それは心低く熱心に祈りつつ探究する者にだけあらわされる。神は聖書を、全人類にとって、幼年時代、青年時代、壮年時代の教科書となり、全生涯にわたって研究すべきものとなるように意図された。神は聖書を、ご自分の啓示として人間にお与えになった。新しい真理が明らかになるたびに、その真理の本源であられる神の品性が新たにあらわされる。聖書を研究することは、人間を創造主とのいっそう密接な関係に入れ、神のみこころをいっそう明瞭に知らせるために、神がお定め GCJap 80.4
になった方法である。それは、神と人間とが交わる手段である。 GCJap 81.1
ワルド派の人々は、主をおそれることが知恵の初めであることを認めていたが、それとともに、世界と接触して人間と実生活の知識を得ることが、心を広くし、知覚を鋭くするのに重要であることを知っていた。青年たちのある者は、山の中の学校から、フランスやイタリアの諸都市にある学校に送られた。そこには郷里のアルプスにおけるよりはいっそう広範な、研究と思索と観察の領域があった。こうして送り出された青年たちは、誘惑にさらされ、罪悪をまのあたりに見、最も巧妙な邪説と最も危険な欺瞞を主張する、サタンの狡猾な手下たちに出会った。しかし彼らが子供の時から受けた教育は、こうしたすべてのことに対する準備となる性質のものであった。 GCJap 81.2
彼らは、どこの学校に行っても、心を打ち明けるような友をつくってはならなかった。彼らの衣服は、最大の宝、すなわち聖書の貴重な写本を隠せるように作られていた。長年の苦心の結晶であるこれらの写本を、彼らはいつも身につけていて、怪しまれない時にはいつでも、真理を受け入れそうな人々に、その一部を注意深く手渡した。ワルド派の青年は、母親のひざもとで、このような目的のために訓育されたのであった。そして彼らは、自分たちの働きを理解し、それを忠実に実行した。真の信仰に改宗する者たちが、これらの大学内に出てきて、その主義が学校全体にみなぎることもよくあった。 GCJap 81.3
しかし法王教の指導者たちは、どんなに厳密に調べても、いわゆる異端邪説の出所をつかむことができなかった。 GCJap 81.4