ワルド派にとって、聖書は、過去の人間を神がどのように扱われたかという記録と、現在の責任と義務の啓示であるだけではなくて、将来の危険と栄光を開き示すものであった。彼らは、万物の終わりが遠い先のことではないことを信じた。そして、祈りと涙をもって聖書を研究した時、ますますその尊い言葉に深く心を動かされ、その救いの真理を他の人々に伝える義務を感じた。彼らは、救いの計画が聖書のページに明らかにあらわされているのを見、イエスを信じることの中に慰めと希望と平和を見いだした。こうして光に照 GCJap 83.3
らされて明らかな理解を得、心の喜びを感じた時に、彼らは、法王教の誤謬という暗黒の中にいる人々に、その光を注ぎたいと熱望した。 GCJap 84.1
彼らは、多くの人々が法王と司祭の指導のもとに、自分たちの魂の罪の償いとして苦行をし、罪の赦しを得ようと無駄な努力をしているのを見た。人々は、善行に頼って救いを得るように教えられていたので、絶えず自分自身に目を向け、自分たちの罪深さを考え、自分たちが神の怒りにさらされているのを見、心と体を苦しめたのであるが、しかしなんの安心も得られないのであった。こうして、良心的な人々はローマの教義に縛られていた。幾千という人々が友人や親戚を捨て、その一生を修道院の小部屋で過ごした。たび重なる断食、残酷なむち打ち、夜半の勤行、荒涼とした住まいの冷たくしめった石の上での数時間の平伏、長途の巡礼、屈辱的苦行や恐ろしい拷問―こうしたものによって、幾千という人々が、良心の安らぎを得ようとしたが無駄であった。罪の意識に圧倒され、神の報復の怒りを恐れて、多くの者は悩み続け、ついには精根尽き果てて、一条の光も希望も得ずに墓に入ってしまうのであった。 GCJap 84.2
ワルド派の人々は、これらの飢えた魂に生命のパンを与え、神の約束の中にある平和のメッセージを示し、救いの唯一の望みとしてキリストをさし示したいと切望した。善行によって、神の律法を犯した罪を贖うことができるという教義は、虚偽に基づくものであると彼らは主張した。人間の功績に頼ることは、キリストの無限の愛を見ることを妨げてしまう。堕落した人類は神の前に、何一つとして自分を推奨しうるものがないために、イエスが人間の犠牲として亡くなられたのである。十字架にかけられ、復活された救い主の功績が、キリスト者の信仰の基礎である。人がキリストによりすがり、キリストにつながるということは、手足が体につながり、枝が幹につながるのと同様に、現実 GCJap 84.3
で密接なものでなければならない。 GCJap 85.1
法王や司祭たちの教えは、神の品性またキリストの品性でさえも、厳格で、暗く、近づきにくいものという考えを人々にいだかせていた。また救い主は、司祭や聖人の仲保がなければならないほど、堕落した人間に対する同情心に欠けたお方として提示された。 GCJap 85.2
しかし、神のみ言葉によって目を開かれた者たちは、罪の重荷と心配や苦労を持ったままご自分のもとに来るようにと、立って両手を広げ、すべてのものを招いておられる愛と憐れみに満ちた救い主イエスを、これらの魂に示したいと熱望した。また、人々が神の約束を認めて、直接神に来て、罪を告白し、赦しと平和を受けることがないようにするためにサタンが積み上げた妨害物―─人々が神の約束を悟らないようにするために、そして、直接神のもとにきて罪を告白し、赦しと平和を得ることがないようにするために、サタンが積み上げた妨害物―─を、一掃したいと切望した。 GCJap 85.3