第34章 「わたしのもとにきなさい」
- 第1章 「神われらと共にいます」a
- 第2章 選民
- 第3章 「時の満ちるに及んで」
- 第4章 あなたがたのために救い主が
- 第5章 献納
- 第6章 わたしたちはその星を見た
- 第7章 子供として
- 第8章 過越のおまいり
- 第9章 戦いの日々
- 第10章 荒野の声
- 第11章 バプテスマ
- 第12章 試み
- 第13章 勝利
- 第14章 「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」
- 第15章 婚宴の席で
- 第16章 神の宮で
- 第17章 ニコデモ
- 第18章 「彼は必ず栄える」
- 第19章 ヤコブの井戸で
- 第20章 「あなたがたはしるしと奇跡を見ないかぎり」
- 第21章 ベテスダとサンヒドリン
- 第22章 ヨハネの投獄と死
- 第23章 「神の国は近づいた」
- 第24章 「この人は大工の子ではないか」
- 第25章 海辺での召し
- 第26章 カペナウムで
- 第27章 「きよめていただけるのですが」
- 第28章 レビ・マタイ
- 第29章 安息日
- 第30章 12弟子の任命
- 第31章 山上の垂訓
- 第32章 百卒長
- 第33章 わたしの兄弟とは、だれのことか
- 第34章 「わたしのもとにきなさい」
- 第35章 「静まれ、黙れ」
- 第36章 信仰のいやし
- 第37章 最初の伝道者たち
- 第38章 さあ、しばらく休みなさい
- 第39章 「あなたがたの手で食物をやりなさい」
- 第40章 湖上の一夜
- 第41章 ガリラヤにおける危機
- 第42章 言い伝え
- 第43章 打破された壁
- 第44章 真のしるし
- 第45章 十字架の前兆
- 第46章 変貌の山
- 第47章 奉仕
- 第48章 だれがいちばん偉いか
- 第49章 仮庵 かりいお の祭り
- 第50章 わなの間で
- 第51章 命の光
- 第52章 よい羊飼
- 第53章 ガリラヤからの最後の旅
- 第54章 よいサマリヤ人
- 第55章 見られるかたちでなく
- 第56章 子供たちを祝福される
- 第57章 「あなたに足りないことが1つある」
- 第58章 「ラザロよ、出てきなさい」
- 第59章 祭司たちの陰謀
- 第60章 新しいみ国の律法
- 第61章 ザアカイ
- 第62章 シモンの家での食事
- 第63章 「あなたの王がおいでになる」
- 第64章 滅ぶべき民
- 第65章 ふたたびきよめられた宮
- 第66章 論争
- 第67章 「パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」
- 第68章 外庭で
- 第69章 オリブ山上で
- 第70章 「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者」
- 第71章 しもべの中のしもべ
- 第72章 「わたしを記念するため」
- 第73章 「あなたがたは心を騒がせないがよい」
- 第74章 ゲッセマネ
- 第75章 アンナスの前とカヤパの邸で
- 第76章 ユダ
- 第77章 ピラトの法廷で
- 第78章 カルバリー
- 第79章 「すべてが終った」
- 第80章 ヨセフの墓の中に
- 第81章 「主はよみがえられた」
- 第82章 「なぜ泣いているのか」
- 第83章 エマオへの道
- 第84章 「安かれ」
- 第85章 もう一度海辺で
- 第86章 行ってすべての国民に教えよ
- 第87章 「わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ」
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第34章 「わたしのもとにきなさい」
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。DA 837.6
この慰めのことばは、イエスについてきた群衆に語られた。人はただイエスご自身を通してのみ神の知識を受けることができると、救い主は言われた。救い主は弟子たちのことを、天の事物について知識を与えられた者であると言われた。しかし主は、だれも自分は神の愛と守りからしめだされていると感じさせられなかった。重荷を負って苦労している者はみな主のみもとに行くことができる。DA 837.7
律法学者とラビたちは、宗教上の形式をきちょうめんに守っていたが、ざんげの儀式によっては、決して満たされない欠乏を感じていた。取税人や罪人た ちは、肉欲的なことや世俗的なことに満足しているようなふりをしていても、彼らの心の中には不信と不安があった。イエスは、心に重荷を負って苦しんでいる者たち、すなわち望みを裏切られ、この世の楽しみによって魂のあこがれを満足させようとしている人々をごらんになって、みなわたしのもとにきて休みなさいと招かれた。DA 837.8
イエスは、骨折っている人々にやさしくこうお命じになった。「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:29、30)。DA 838.1
このことばを通して、キリストは人類の一人一人に話しかけておられる。意識しようとしまいと、人はみな重荷を負って、疲れている。みな重荷におしつぶされているが、それをとり除くことができるのはキリストだけである。われわれが背負っている一番重い重荷は罪の重荷である。もしわれわれがこの重荷を負うままにされていたら、それはわれわれをおしつぶしてしまうだろう。しかし罪のないお方がわれわれの身代りになられた。「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(イザヤ53:6)。主はわれわれの不義の重荷を負われた。主はわれわれの疲れた肩から荷物をとられる。主はわれわれに休みを与えられる。また心配や悲しみの重荷も主は負ってくださる。心配ごとは全部わたしにまかせなさいと主は招いておられる。なぜなら主はわれわれのことを心にとめておられるからである。DA 838.2
人類の長兄であられるイエスは、永遠のみ座のそばにおられる。イエスは救い主としてのご自分に顔を向けている一人一人をごらんになる。イエスは、人性の弱点は何か、われわれの足りないところは何か、われわれの誘惑の力はどこにあるかをご自分の経験を通して知っておられる。なぜなら主は、すべての点にわれわれと同じように試みられ、しかも罪を犯されなかったからである。主はおののいている神の子であるあなたを見守っておられる。あなたは試みられるだろうか。主は救いだしてくださる。あなたは弱いだろうか。主は強くしてくださる。あなたは無知だろうか。主は知識を与えてくださる。あなたは傷ついているだろうか。主はいやしてくださる。「主はもろもろの星の数を定め、すべてそれに名を与えられる。」しかも「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる」(詩篇147:4、3)。「わたしのもとにきなさい」というイエスの招きである。あなたの心配事や試練が何であろうと、主の前に事情をうち明けなさい。あなたの心には忍耐のささえができる。あなたが困惑や困難からぬけ出す道が開かれる。あなたは自分が弱く無力であることを知れば知るほど、イエスの力によってますます強くなる。あなたの重荷が重ければ重いほど、その重荷を負ってくださる方にまかせた時の休みは有難いのである。キリストが提供される休みは条件つきであるが、その条件は明示されている。それはだれでも応ずることのできる条件である。イエスはその休みがどのようにして見いだされるかを告げておられる。DA 838.3
「わたしのくびきを負いなさい」とイエスは言われる。くびきは奉仕の道具である。牛は労働するためにくびきを負わされるが、それは牛が効果的に働くために必要なのである。この実例によって、キリストはわれわれが、命のあるかぎり、奉仕に召されていることをお教えになっている。われわれはキリストと共に働く者となるために、キリストのくびきを身に負うのである。DA 838.4
奉仕にむすびつけるくびきは神の律法である。エデンであらわされ、シナイで布告され、新しい契約のもとに心にしるされる偉大な愛の律法は働く人間を神のみこころにむすびつけるものである。もしわれわれが自分の好むままに歩み、自分の意志の命ずるところへどこへでも行くままに放っておかれるならば、われわれはサタンの隊列にはいりこみ、サタンの特性を持つ者となるであろう。そこで神は、われわれを高い、とうとい、そして向上させるご自身のみこころにつながれるのである。神は、われわれが忍耐強く、賢明に奉仕の義務を負うように望んでおられる。この奉仕のくびきを、キリストは自ら人性をもって負わ れた。イエスはこう言われた、「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:8)「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」(ヨハネ6:38)。神に対する愛、神のみ栄えをあらわそうとする熱心、堕落した人類に対ける愛のゆえに、イエスはこの世においでになって、苦難を受け、死なれたのである。これがイエスの一生を支配した力であった。この原則をとり入れるようにと、イエスはわれわれに命じておられる。DA 838.5
この世の標準に達しようとして、心配の重荷に心を痛めている人が多い。彼らは世の奉仕を選び、世のわずらいを受け入れ、世の習慣をとり入れた。こうして彼らの品性はそこなわれ、人生は疲れはてたものとなる。野心と世俗的な欲望を満足させるために、彼らは良心を傷つけ、悔恨というよけいな重荷まで背負いこむ。たえまない心配のために、生活の力はすりへって行く。主は彼らがこの束縛のくびきを放棄するように望まれる。イエスはわたしのくびきを負いなさいと彼らを招いておられる。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と主は言われる(マタイ11:30)。イエスは彼らに、まず神の国と神の義とを求めなさいと命じられる。そうしたらこの世の生活に必要なものはすべて加えられると、主は約束しておられる。心配は盲目であり、将来をみわけることができない。だがイエスは、始めから終りまで見通される。困難のたびに、イエスはそれをとり除くためにご自分の道を備えられる。天の父なる神は、われわれのために無数の道を備えて下さるが、われわれはそのことを何も知らないのである。神に奉仕しそのみ栄えをあらわすことを最高のものとするというただ一つの原則を受け入れる者は、困った隠題がなくなり、足元にはっきりした道が開かれることに気がつくのである。DA 839.1
「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから……わたしに学びなさい」とイエスは言われる(マタイ11:29)。われわれはキリストから柔和と謙遜を学ぶために、キリストの学校に入るのである。あがないは、魂が天国のために訓練される過程である。この訓練はキリストを知ることである。それは暗黒の君の学校で身についた考え方、習慣、行為からの解放である。魂は神への忠誠に反する一切のものから救い出されねばならない。DA 839.2
キリストの心の中は、神との完全な調和に支配されていたので、完全な平安があった。彼は称賛に得意になったり、酷評や失望に落胆したりなどされなかった。最も激しい反対と最も残酷な仕打ちのただ中にあっても、イエスは勇気を失われなかった。しかしキリストに従う者であると自称している人々の中には、不安で心配な心を持っている人が多いが、それは彼らが自分自身を神にまかせきれないからである。彼らは神に完全に屈服しない。それは彼らがこのような屈服に含まれている結果を避けるからである。彼らは、この屈服をしないかぎり平安を見いだすことができない。DA 839.3
不安を生じさせるのは自分を愛する心である。われわれが天から生まれる時に、イエスのうちにあったのと同じ心がわれわれのうちに宿るようになる。それはわれわれを救うために自らいやしい身となられたイエスの心である。その時われわれは、最高の地位を求めなくなる。われわれはイエスの足元にすわってイエスについて学びたいと望むようになる。われわれの働きの価値は、世間にそうそうしい宣伝をしたり、自分自身の力で熱心に活動したりすることにあるのではないということがわかる。DA 839.4
われわれの働きの価値は、聖霊を与えられる度合いに比例する。こうして神に信頼することによって、一層きよい心の品質が与えられ、忍耐のうちにわれわれの魂を保つことができる。DA 839.5
くびきは、牛が荷物をひくのを助けるため、また重荷を軽くするために牛にかけられる。キリストのくびきもこれと同じである。われわれの意志が神のみこころのうちに没入し、他人を祝福するために神の賜物を用いる時、われわれは人生の重荷を軽く感ずる。神の戒めの道を歩む者は、キリストを道つれとし て歩いているのであって、その心はキリストの愛のうちに休まる。モーセが、「どうか、あなたの道を示し(てください)」と祈った時、主は「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」と彼に答えられた(出エジプト33:13、14)。また預言者たちを通して次のメッセージが与えられた。「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ」(エレミヤ6:16)。また神はこう言われる、「どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようにな(る)」(イザヤ48:18)。DA 839.6
キリストをみことば通りに信じ、自分の魂をキリストの守りに委ね、その生活をキリストの命令に従わせる者には、平安とおだやかさがある。イエスがそのこ臨在によって彼らをよろこぼせてくださる時、この世のどんなものも彼らを悲しませることができない。ただ黙々として従うことに完全な休みがある。「あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである」と主は言われる(イザヤ26:3)。われわれの生活は混乱しているようにみえるかも知れない。しかし賢明な巨匠であられる神に自分自身をまかせる時、神はご自身の栄えとなる生活と品性の型をつくり出される。こうしてキリストの栄光すなわちキリストの品性をあらわす人は、神のパラタマスに受け入れられる。新しくされた人類は、白衣を着て神とともに歩むのである。彼らにその価値があるからである。DA 840.1
われわれがイエスを通して休みに入る時、天国はこの地上に始まる。わたしのもとにきて、わたしに学びなさいとのイエスの招きに応じてみもとに行く時、われわれの永遠のいのちが始まる。天国はキリストを通してたえず神に近づくことである。幸福な天国にいればいるほどますます栄光がわれわれに示されるであろう。神について知れば知るほど、われわれの幸福はまし加わるであろう。この世にあってイエスとともに歩む時、われわれはイエスの愛に満たされ、イエスのこ臨在に満足するかもしれない。この世にあってわれわれは、人間の性質の耐えられることをすべて受けるかもしれない。だがこうしたことは来世に比較する時、もののかずではない。そこでは「それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」(黙示録7:15~17)。DA 840.2