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各時代の希望 - Contents
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    第54章 よいサマリヤ人

    本章はルカ10:25~37に基づくDA 932.3

    よいサマリヤ人の物語を通して、キリストは真の宗教の本質を例示しておられる。真の宗教は、制度や、信条や、儀式にあるのではなくて、それは愛の行為を実行すること、他人に最高の幸福をもたらすこと、真の親切さにあることを、キリストは示しておられる。DA 932.4

    キリストが人々に教えておられると、「ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、『先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか』」(ルカ10:25)。大勢の会衆はかたずをのんでその答えを待った。祭司たちとラビたちは、律法学者にこの質問をさせることによって、キリストをわなにかけようと思ったのであった。しかし救い主は、論争をはじめられなかった。主はこの質問をした当人から答えを求められた。主は、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」と言われた(ルカ10:26)。ユダヤ人は、シナイ山で与えられた律法をイエスが軽視しておられるとまだ非難していた。ところがイエスは、救いについての質問を神の律法を守る問題に向けられたのである。DA 932.5

    律法学者は、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」とあります」と言った。イエスは「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いの ちが得られる」と言われた(ルカ10:27、28)。DA 932.6

    この律法学者は、パリサイ人の見解と行為に満足していなかった。彼は、聖書の真の意味を知りたいという願いをもって聖書を学んできた。彼はこの問題に重大な関心を持ち、「わたしは何をしたらよいのでしょうか」と真心からたずねたのだった。律法の要求についての答えの中で、彼はおびただしい儀式や礼典の規則を全部無視した。彼はそうしたものに何の価値もおかず、律法の全体と預言者とがかかっている2つの大原則を示した。この答えはキリストにほめられ、救い主はこの答えによって、ラビたちに対して有利な立場にたたれた。彼らは、律法の解説者から言い出されたことをキリストが承認されたのだから、それを非難することができなかった。DA 933.1

    「そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」とイエスは言われた(ルカ10:28)。キリストは律法を神聖な一体としてお示しになった。そうしてこの教訓を通して、律法の全体は同じ原則でつらぬかれているので、一つの戒めを守って他の戒めを破るというわけにはいかないことをお教えになった。人の運命は律法の全体に従うことによってきまるのである。神への最高の愛と、人へのわけへだてのない愛は、生活に実行されなければならない原則である。DA 933.2

    この律法学者は、自分が律法を破っている者であることに気がっいた。彼は、キリストのするどいみことばによって、罪をさとった。彼は、自分が理解していると主張している律法の義を実行していなかった。彼は同胞に対する愛をあらわしていなかった。悔い改めが要求された。しかし彼は悔い改めないで、自分の立場を弁護しようと試みた。彼は、事実を認めるよりも、むしろ戒めを守ることがどんなに困難であるかを示そうとした。こうして彼は、罪の自覚をごまかすと同時に、人々の目に自分が正しいことを証明しようと望んだ。彼は自分で自分の質問に答えることができたのだから、その質問が不必要であることを救い主のみことばは示していた。それでも彼はほかの質問をして、「わたしの隣り人とはだれのことですか」と言った(ルカ10:29)。DA 933.3

    ユダヤ人の間では、この質問は、はてしない議論を引き起こした。彼らは、異邦人とサマリヤ人については問題にしなかった。この人たちは他国人であり、敵であった。すると自分自身の国の人たち、また社会のいろいろな階層の間ではどこに区別をつけたらよいのだろう。祭司たちやラビたちや長老たちは、だれを隣り人とみなしたらよいのだろう。彼らは自分自身をきよめるために儀式のくりかえしに一生を送った。無知で軽率な大衆と接触すればけがれを生じ、そのけがれを取り除くためにはうんざりするような努力が必要であると、彼らは教えた。彼らは「きよくない」者たちを隣り人とみなすべきだろうか。DA 933.4

    ふたたびイエスは論争にひき入れられるのを拒否された。イエスはこ自分を罪に定めようと見張っている人たちの偏狭な心を非難されなかった。むしろイエスは、単純な物語によって、すべての人の心を感動させるような天来の愛の流れを聴衆の前にえがき、律法学者から事実について一つの告白を引き出された。DA 933.5

    暗やみを追い払う方法は光を入れることである。誤謬をとり扱う最上の方法は真理を示すことである。自己中心の心のみにくさと罪とを明らかに示すのは、神の愛のあらわれである。DA 933.6

    イエスはこう言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った」(ルカ10:30~32)。これは想像の光景ではなく、実際の出来事であって、ここに言われている通りのことが知られていた。向こう側を通った祭司とレビ人が、キリストのみことばをきいている人たちの中にいた。DA 933.7

    エルサレムからエリコへ旅をするには、旅人はユダヤの荒野の場所を通らねばならなかった。道は荒れはてた岩の多い谷間へくだっているが、そこは強 盗が出没し、しばしば暴力がふるわれる場所であった。ここてその旅人は襲われて、貴重品を全部奪われ、傷つけられ、半殺しにされたまま道ばたに置いてきぼりにされた。こんな有様で彼が横たわっていると、祭司がその道をやってきた。しかし祭司は負傷している男の方を一目見ただけだった。次にレビ人が現われた。そこに起こった出来事を知りたい好奇心から、彼は立ちどまって被害者を見た。彼は自分がとうしなければならないかを自覚したが、それは愉快な義務ではなかった。彼は、この道をこなければよかった、そしたらこの負傷者を見ないですんだのにと思った。彼はこの事件は自分の関係したことではないと、自分に言いきかせ。DA 933.8

    祭司もレビ人もともに聖職にあって、聖書の解説者であると自称していた。彼らは民に対して神を代表する者として特にえらばれた階級であった。彼らは、人類に対する神の大いなる愛を理解させるように、「無知な迷っている人々を、思いやる」はずだった(ヘブル5:2)。イエスはご自分の働きについて、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ」と表現されたが、祭司やレビ人もこれと同じ働きをするために召されていた(ルカ4:18)。DA 934.1

    天使たちは、地上の神の家族が困っているのを見て、その重荷と苦しみを助けるのにいつでも人々と協力しようとする。神は、その摂理によって、祭司とレビ人に、負傷した被害者が横たわっているところを通らせ、彼が同情と助けを必要としているのを見させようとされた。この人たちの心が人間の苦悩に対する同情に動かされるかどうかをみようと、全人は見守っていた。救い主は、荒野でヘブル人をお教えになったお方であった。主は、雲と火の柱の中から、いま民が祭司たちと教師たちから受けているのとはちがった教訓をお教えになった、律法の情深い条項には、自分の願いや苦しみをことばで言い表すことのできない下等動物のことさえ規定されていた。イスラエルの民のために次のような趣旨のことかモーセに命令されていた、「もし、あなたが敵の牛または、ろばの迷っているのに会う時は、必ずこれを彼の所に連れて行って、帰さなければならない。もしあなたを憎む者のろばが、その荷物の下に倒れ伏しているのを見る時は、これを見捨てて置かないように気をつけ、必ずその人に手を貸して、これを起さなければならない」(出エジプト23:4、5)。ところがイエスは、強盗に負傷させられたこの男を通して、困っている兄弟の実例をお示しになった。彼らの心は、荷物を運ぶ動物に対するよりもずっと同情心に動かされるはずであった。彼らの神であられる主は、「大いにして力ある恐るべき神にましまし……みなし子とやもめに正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛」されるということばが、モーセを通して彼らに与えられていた(申命記10:17、18)。だから神は、「あなたがたと共にいる寄留の他国人を、……あなた自身のようにこれを愛さなければならない」と命じられたのである(レビ19:34)。DA 934.2

    ヨブは、「他国人はちまたに宿らず、わたしはわが門を旅びとに開いた」と言った(ヨブ31:32)。また、人の姿をしたふたりの天使がソドムへやってきた時、ロトは地面にひれ伏して、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください」と言った(創世記19:2)。祭司もレビ人もこうした教訓をよく知っていたが、それを実際の生活にとり入れていなかった。国民的な偏狭心という学校で訓練されていたので、彼らは、利己的で、狭量で、排他的であった。彼らは、負傷者を見た時、その人が自国民かどうかわからなかった。彼らはその人がサマリヤ人かも知れないと思って立ち去った。DA 934.3

    キリストがこの話をされた時、律法学者は、彼らの偽のうちに、律法の要求に関して自分が教えられたことに反するようなものは何も見いださなかった。しかしこんどは別の光景が示された。DA 934.4

    あるサマリヤ人か、旅の途中、この被害者のいるところを通りかかったが、彼はその人を見た時同情し た。彼はこの見知らない人がユダヤ人であるか、それとも異邦人であるかを問題にしなかった。もしそれがユダヤ人だったら、そして、立場が逆だったら、その男は顔につばをはきかけ、軽蔑して行ってしまうことを、サマリヤ人はよく知っていた。しかしそうだからといって、彼はちゅうちょしなかった。彼はまたこの場所にぐずぐずしていたら、自分自身暴力を受ける危険があることをかえりみなかった。自分の目の前に困って苦しんでいる1人の人間がいるということが重大であった。彼はその男に着せるために自分の上衣をぬいだ。その傷ついた男をいやし、元気づけるために、彼は、自分の旅行用の油と酒を用いた。彼は、その男を自分の家畜にのせ、揺れて余計痛むようなことがないように、一様な歩調でゆっくり歩いて行った。彼は、その男を宿屋に連れて行って、一晩中看護し、やさしく見守った。朝になって、病人がよくなったので、サマリヤ人は出かけることにした。しかしそうする前に、彼はその男の世話を宿屋の主人にたのみ、その費用を支払い、またその男のためにお金まで預け、それでもまだ満足しないで、もっと入用があった場合の用意までして、主人に、「この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います」と言った(ルカ10:35)。DA 934.5

    物語が終わると、イエスは魂まで見通すような目つきで、律法学者の方をじっとごらんになって、「この3人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」と言われた(ルカ10:36)。DA 935.1

    律法学者は、それでも、サマリヤ人という名を口にしたくなかったので、「その人に慈悲深い行いをした人です」と答えた。するとイエスは、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われた(ルカ10:37)。DA 935.2

    こうして、「わたしの隣り人とはだれのことですか」という質問は永久に答えられた。キリストは、われわれの隣り人とは、われわれ属している教会や信仰の隣人だけではないことをお示しになった。それは人種、皮膚の色、あるいは階級差と何の関係もない。われわれの隣り人は、われわれの助けを要している一人一人である。われわれの隣り人は、敵から傷つけられている魂の一人一人である、われわれの隣り人は、神の財産である人間の一人一人である。DA 935.3

    よいサマリヤ人の物語の中で、イエスは、ご自分とご自分の使命について描写された。人はサタンから欺かれ、傷つけられ、奪われ、台無しにされて、滅びるがままにうち捨てられている。だが救い主は、われわれの無力な状態をあわれんでくださった。主は、われわれを救うために、ご自身の栄光を捨てられた。主は、われわれが死ぬばかりになっているのをこらんになって、われわれの身代りとなられた。主は、われわれの傷をいやされた。主はご自身の義の衣でわれわれをおおわれた。主は、われわれのために安全な避難場所を備え、こ自分で費用を払って、われわれのために完全な用意をされた。主は、われわれをあがなうために死なれた。ご自身の模範をさし示して、主は、従う者たちにこう言われる、「これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ15:17、13:34)。DA 935.4

    律法学者がイエスに質問したことは、「何をしたら……」であった(ルカ10:25)。するとイエスは、神と人とに対する愛を義の総計として認め、「そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」と言われた(ルカ10:28)。DA 935.5

    サマリヤ人は、親切な愛の心の命令に従い、そのことによって、律法を行う者であることを示した。キリストは律法学者に、「あなたも行って同じようにしなさい」とお命じになった(ルカ10:37)。ただ口で言うばかりでなく、行うようにということが、神の子らに期待されている。「『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(Ⅰヨハネ2:6)。DA 935.6

    この教訓は、それがイエスの口から出た時におとらないほど今日も、この世にとって必要である。利己主義と冷たい形式主義が愛の火をほとんど消してしまい、品性を香り高いものとする美徳を追い払ってしまった。キリストのみ名を称する多くの者は、クリスチャンはキリストを表わさねばならないという事実を忘 れている。家庭の中において、隣近所において、教会の中において、われわれがどこにいようと、またわれわれの職業が何であろうと、ほかの人の幸福のために実際に自己犠牲を払うのでなければ、われわれは口では何と言おうとも、クリスチャンではない。DA 935.7

    キリストは、ご自分の関心を人類の関心と結びつけられた。そして主は、人類を救うために、われわれがキリストと一体となるように求めておられる。「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」とイエスは言われる(マタイ10:8)。罪はすべてのわざわいの中で最大のものであるから、われわれは罪人を憐れみ、助けねばならない。まちがいを犯して、恥しさと愚かさを感じている者がたくさんいる。彼らは、励ましのことばに飢えている。彼らは、自分の過失や誤りをながめて、ついにはほとんど絶望に追いやられる。このような魂を無視してはならない。もしわれわれがクリスチャンなら、われわれの助けを最も必要としている人からできるだけ遠く離れて向こう側を通り過ぎるようなことをしないであろう。苦悩のためにあるいは罪のために困りはてている人を見たら、これはわたしに関係のないことだとは決して言わないであろう。DA 936.1

    「霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい」(ガラテヤ6:1)。信仰と祈りによって、敵の力をおし返しなさい。傷ついている人にいやしの香油となるような信仰と勇気のことばを語りなさい。たった一言の親切な励ましのことばで勝利するように力づけられたであろうものを、人生の大きな戦いに弱り果て、落胆してしまった人々がどんなに多いことだろう。われわれは、苦しんでいる魂のそばを通りすぎる時にはかならず、自分自身が神から慰めてもらった慰めをその魂に与えるようにつとめなければならない。DA 936.2

    こうしたことはすべて律法の原則、——よいサマリヤ人の物語に例示され、イエスの一生にあらわされている原則の成就にすぎない。イエスのご品性は律法の真の意味をあらわし、隣人を自分自身と同じように愛するということがどういうことであるかを示している。こうして神の民が、どんな人に対しても同情と親切と愛とをあらわす時、彼らはまた天の規則の性格についてあかしをたてているのである。彼らは、「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ」るという事実をあかししているのである(詩篇19:7)。この愛をあらわさない者は、彼があがめていると告白している律法を破っているのである。なぜなら、われわれが兄弟たちに対してあらわす精神は、神に対するわれわれの精神がどんなものであるかを宣言しているからである。心のうちにある神の愛は、われわれの隣人に対する愛のただ一つの泉である。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。……愛する者たちよ。……もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」(Ⅰヨハネ4:20、11、12)。DA 936.3

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