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人類のあけぼの - Contents
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    第43章 モーセの死

    本章は、申命記31~34章に基づくPP 244.3

    神が、神の民をあっかわれる時は、いつでも、そこに神の愛と憐れみとともに、神の厳正公平な正義が混じっているものである。それが、ヘブル人の歴史のなかで実証されている。神は、イスラエルに大きな祝福をお与えになっていた。彼らに対する神のいつくしみが、感動的に描かれている。「わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、主はただひとりで彼を導かれ」た(申命記32:11、12)。だが、彼らの罪に対しては、なんとすみやかできびしい報復が臨んだことであろう。PP 244.4

    神の無限の愛は、失われた人類をあがなうために、ひとり子を賜わったことに示されている。キリストは父のご品性を人にあらわすために地上においでになったのであり、その生涯は天来の柔和と同情に満ちていた。しかし、キリストご自身が、「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされる」と仰せになる(マタイ5:18)。みもとに来て、ゆるしと平安を得るようにと忍耐強く愛情をもって罪人を招く同じ声が、審判に当たっては、ご自分のいつくしみを退ける者に、「のろわれた者どもよ、わたしを離れ」よ、とお命じになる(同25:41)。聖書全体を通して、神はやさしい父であるばかりでなく、公正な審判者としてあらわされている。神は喜んで憐れみを示し、「悪と、とがと、罪とをゆるす」が、しかし、「罰すべき者をば決してゆるさ」ないお方である(出エジプト34:7)。PP 244.5

    諸国の偉大な統治者であられる神は、モーセがイスラエルの会衆を良い地に導き入れることはできないと言明しておられた。そして、モーセの熱心な願いもこの宣告を取り消すことはできなかった。彼は、自分が死ななければならないことを知っていた。しかし、彼は、一瞬でもイスラエルの世話をやめなかった。彼は、会衆を約束の地に入れる準備を忠実に果たしてきた。モーセとヨシュアは、神の命に従って、幕屋に行った。すると、雲の柱がその入口の上に立った。ここで民は、おごそかにヨシュアの監督に委ねられた。イスラエルの指導者としてのモーセの務めは終わっ た。それでもなお、彼は自分を忘れて民のことを思っていた。集まった群衆の中で、モーセは神の名により、後継者ヨシュアにこう語って励ました。「あなたはイスラエルの人々をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならない。それゆえ強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」(申命記31:23)。それから、彼は、民の長老たちや役人たちに向きなおり、彼が神から受けて彼らに伝えた教えに忠実に従うようにという厳粛な訓示を与えた。PP 244.6

    まもなく彼らの間から取り去られねばならない年老いたモーセを人々が見つめたとき、彼らは、新たに深い感謝にあふれ、彼の父親のようなやさしさ、賢明な勧告、疲れをいとわない労苦を思い起こした。彼らの罪が、神の公正な審判を招いたとき、彼らはモーセのとりなしによって救われたことが幾たびあったことであろう。彼らは心を責められて悲嘆にくれた。自分たちのかたくなな思いがモーセに罪を犯させ、そのために彼が死ななければならなくなったことを思い起こして、彼らの心は痛んだ。PP 245.1

    モーセの命と彼の務めが、なおも続いて、彼から人々が譴責されることよりも、この愛する指導者が取り去られることのほうが、イスラエルにとっては、さらに大きな譴責であった。彼らが、モーセの生涯を苦しいものにしたように、将来の指導者の生涯は苦しいものにすまいという自覚を、彼らに持たせることを神は望まれた。神は、祝福を与えて、民に語られた。そして、それが感謝して受け入れられないと、その祝福を取り去って、彼らが自分たちの罪をさとり、心から神に立ち帰るように導かれる。PP 245.2

    その当日、モーセは次のような命を受けた。「あなたは……ネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう」(同32:49、50)。モーセはそれまで、たびたび天の招きに従って宿営を離れて神と交わったことがあった。しかし彼は今、新しい神秘的な旅に出ようとしていた。彼は出かけて行って、自分の命を創造主の手に委ねなければならなかった。モーセはただ1人で死に、地上の友はだれも彼の最後を見とるのを許されないことを知っていた。前途には神秘と恐れが横たわり、それを思って彼の心はひるんだ。何よりもつらいのは、彼が保護し、愛してきた民、長い間彼の関心と生命とが結びついていた民と別れなければならないことであった。だが、彼は、神に信頼することを学んでいた。彼は、自分と自分の民とを疑うことなく神の愛と憐れみに委ねた。PP 245.3

    モーセが民の集まりの中に立つのはこれが最後であった。神の霊がふたたび彼に宿り、彼は最も崇高で、感動的な言葉で各部族に祝福を宣言し、次のような言葉ですべてを祝福して終わった。PP 245.4

    「エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。PP 245.5

    あなたを助けるために天に乗り、PP 245.6

    威光をもって空を通られる。PP 245.7

    とこしえにいます神はあなたのすみかであり、PP 245.8

    下には永遠の腕がある。PP 245.9

    敵をあなたの前から追い払って、PP 245.10

    『滅ぼせ』と言われた。PP 245.11

    イスラエルは安らかに住み、PP 245.12

    ヤコブの泉は穀物とぶどう酒の地に、PP 245.13

    ひとりいるであろう。PP 245.14

    また天は露をくだすであろう。PP 245.15

    イスラエルよ、あなたはしあわせである。PP 245.16

    だれがあなたのように、PP 245.17

    主に救われた民があるであろうか。PP 245.18

    主はあなたを助ける盾」PP 245.19

    (同33:26~29)PP 245.20

    モーセは会衆をあとに、黙々とただ1人山を登った。彼は「ネボ山に登り、……ピスガの頂へ行った」(同34:1)。彼はその寂しい山頂に立ち、くもりのない目で前方に開けた光景をながめた。遠く西には地中海の青い水が見え、北にヘルモン山が空にそびえ、東にモアブの高原と、その先にはイスラエルの勝利の地バシャンが広がり、南には遠く長く旅を続けてきた荒野が続いていた。PP 245.21

    モーセは、ただ1人で神の民と運命を共にするために、エジプトの宮廷の栄誉と将来の王位を捨てたときから始まった、彼の人生の変転と辛苦をふり返った。長年にわたり荒野でエテロの羊を飼ったこと、燃えるしばの中に天使が現れたこと、また、彼がイスラエルを解放するように召されたことを思い起こした。PP 246.1

    彼はまた、選民のためにあらわされたみ力の奇跡と、放浪と反抗の年月を導かれた神の忍耐と憐れみに思いをはせた。神がこうして彼らに尽くしてこられたにもかかわらず、そして、また、彼が祈りと労苦を重ねてきたにもかかわらず、エジプトを出た大群集の成人のうち、忠実であって約束の地に入ることのできたのはたった2人しかいなかった。自分の労苦の結果をふりかえったとき、彼の試練と犠牲の生涯はほとんど徒労であったように思われた。PP 246.2

    だが、彼は重荷を負ってきたことを悔いなかった。彼は、自分の任務と仕事は、神ご自身がお定めになったものであることを知っていた。はじめイスラエルを奴隷の境遇から導き出す者となるように召されたとき、彼はその責任からしりごみしたが、ひとたび任務についた以上は、その重荷を投げ捨てなかった。彼を解放し、反抗的なイスラエルを滅ぼそうと主が言われた時にも、モーセは同意することができなかった。彼の試練は大きかったが、彼には特別な神の恵みのしるしが与えられていた。彼は荒野の旅のあいだに神の力と栄光の現れを目撃し、その愛の交わりに豊かにあずかってきた。彼は、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に苦しむことを選んだのは賢明な決断であったと思った。PP 246.3

    神の民の指導者としての自分の生涯をふりかえってみると、1つの誤った行為がその記録を傷つけていた。もしあの罪が消されるものなら、死も恐ろしくないと彼は思った。彼は、悔い改めと、約束のいけにえに対する信仰こそ、神のお求めになるすべてであるという確証が与えられた。そして、モーセは、ふたたび自分の罪を告白し、イエスの名によって赦しを願った。PP 246.4

    やがて約束の地のパノラマが彼の目に展開された。国土のすみずみが、彼の前にひろがった。それは遠くの不明瞭な光景ではなく、喜びにあふれた彼の目に、はっきりと美しく浮き出たのである。このながめは、その当時にあったままのものが見えたのではなく、それがイスラエルの領土となり、神の祝福のもとに将来どうなるかという光景であった。彼は第二のエデンを見ているようであった。山々はレバノンの杉でおおわれ、丘はオリブの木にいろどられ、ぶどうのかおりを放っていた。広い緑の平野には花が咲いて豊かに実り、ここには熱帯のしゅろの木が繁り、むこうには小麦、大麦が波立ち、日の当たる谷間では流れがささやき、小鳥がうたっていた、美しい町とみごとな庭園が趣をそえ、湖水は「海の富」(同33:19)にあふれ、丘では羊が草をはみ、岩間にさえはちみつのしたたりがあった。それは神の霊に動かされて、かつてモーセが描き出した国土であった。「どうぞ主が……祝福されるように。上なる天の賜物と露、下に横たわる淵の賜物、日によって産する尊い賜物、……いにしえの山々の産する賜物、……地とそれに満ちる尊い賜物……が……くだるように」(同33:13~16)。PP 246.5

    モーセは、選民がカナンに定着し、各部族がそれぞれの所有を与えられるのを見た。彼は、約束の地に定住した後の彼らの歴史を見た。彼らの背教と刑罰の長い悲しい物語が彼の目の前にひろがった。罪のために彼らが異邦人のあいだに散らされ、栄光がイスラエルを離れ、美しい都市が廃虚となり、民が異国に捕らえられて行くのを見た。また、彼らが先祖の国に帰還し、ついにはローマの支配下に置かれるのを見た。PP 246.6

    彼は時の流れをくだって、われらの救い主の初臨を見ることを許された。彼はベツレヘムの幼子イエスを見た。天使の大群が、神には栄光、地には平和と賛美して喜びうたう声を聞いた。彼は東方の博士をイエスのもとに導いた星を天に見た。そして、「ヤコブから1つの星が出、イスラエルから1本のつえが起」る(民数記24:17)という預言のことばを思い出して、彼の心は大いなる光でみなぎりあふれた。 彼は、キリストが、ナザレで質素な生活を送り、愛と同情と癒しの奉仕をされたあとで、高慢で不信仰なユダヤ民族から拒否されるのを見た。彼は、彼らが神の律法を誇らかに高めながら、その律法をお与えになったかたをさげすみ退けるのを驚いて聞き入った。彼は、オリブ山で愛する都に涙の別れを告げられるイエスを見た。神から大きな祝福を受けた民、すなわち、彼が労苦と祈りと犠牲をはらい、彼らのためなら自分の名がいのちの書から消されるのもいとわなかった民が最後的に退けられるのを見、「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」(マタイ23:38)という恐るべきことばを聞いたとき、モーセの心は苦悩にうめき、神のみ子の悲しみをしのんで悲嘆の涙があふれ落ちた。PP 246.7

    彼は、ゲッセマネまで救い主につき従い、園の中の苦悶、裏切り、嘲笑、むち打ち——そして十字架を見た。モーセは、ちょうど自分が荒野でへびをあげたように、信じる者が「すべて永遠の命を得るため」に、神の子もあげられなければならないことを知った(ヨハネ3:15)。ユダヤ民族が、彼らの贖い主、父祖たちの偉大な指導者であったみ使いに対し、偽善と悪魔的な憎しみを示すのを見て、モーセの心は悲嘆と、義憤と、戦慄をおぼえた。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というキリストの苦悩の叫びを彼は聞いた(マルコ15:34)。ヨセフの新しい墓に横たえられたキリストを彼は見た。どうすることもできない絶望の暗やみが世界を包んだように思われた。しかし、彼がふたたび目をあげると、キリストは勝利者として現れ、大勢のとりこを引き連れ、賛美の歌をうたう天使たちを従えて、昇天なさるのが見えた。光り輝く門が開かれ、天の万軍が凱旋の歌声高らかに彼らの司令官を迎えるのを、彼らは見た。そして、彼自身は、そこで救い主に従い、とこしえの門を開いて、キリストを迎える者になることが示された。その情景をながめるにつれて彼の顔は清い輝きを帯びてきた。神のみ子に比べるならば、彼の生涯の試練と犠牲はなんと小さく見えたことであろう。そして「永遠の重い栄光」と比べてなんと軽く見えたことであろう(Ⅱコリント4:17)。彼は、ほんのわずかであるとはいえ、キリストの苦難にあずかる者とされたことを喜んだ。PP 247.1

    モーセは、イエスの弟子たちが出て行って、全世界に福音を伝えるのを見た。「肉による」イスラエルの民は、神から召されていた高い召しに応えることができず、不信仰のために世の光となり得なかった。また、彼らは神の憐れみを軽んじ、選民としての祝福を失ってしまった。しかし、神は、アブラハムの子孫をお捨てにならず、イスラエルを通して果たそうとなさった輝かしいみ旨が実現されることを彼は知った。キリストを通して、信仰の子となる者はみな、アブラハムの子孫に数えられるのであった。彼らは契約の約束を継ぐ者であった。彼らはアブラハムのように、神の律法と、み子の福音を守り、これを世に知らせる務めに召された。福音の光が、イエスの弟子たちを通して、「暗黒の中に住んでいる」(マタイ4:16)人々に輝き、異邦の国から幾千の人々がそののぼる輝きに集まってくるのをモーセは見た。彼はこれを見て、イスラエルの数が増加し、繁栄するのを喜んだ。PP 247.2

    次に、もう1つの光景が彼の前を通り過ぎた。彼は、先に、ユダヤ人が天父の律法をあがめると言いながら、キリストを拒絶するように導いたサタンのわざを示されていたが、今度はキリスト教界が、キリストを信じると言いながら、神の律法を拒絶するという同様な惑わしに陥るのを見た。彼は、祭司たちや長老たちが、「イエスを殺せ」「十字架につけよ」と狂い叫ぶのを聞いていたが、今度は、キリスト教の教師と自称する者たちが「律法を廃止せよ」と叫ぶのを聞いた。安息日が足の下に踏みつけられ、それに代わってにせの制度が確立されるのを彼は見た。ふたたびモーセは驚愕と戦慄に満たされた。キリストを信じる者が、聖なる山で主ご自身がお告げになった律法を、どうして拒むことができるのであろう。神を恐れる者が、天と地の統治の基礎である律法をどうして退けることができるのであろう。しかしモーセは、神の律法を尊びあがめる忠実な者たちが少数ながらいることを知って喜んだ。彼は、地上の諸勢力が神の律法 を守る者たちを滅ぼそうとする最後の大いなる戦いを見た。彼はさらに、その先に目を向けて、神が立ち上がり、罪を犯した地の住民を罰するのを望み見ると共に、み名を恐れる者たちは、その怒りの日におおいかくされるのを知った。神が、その「聖なるすみか」から語り、天と地を震わせて、律法を守った者たちと平和の契約を結ばれるのを彼は聞いた。栄光のうちにキリストが再臨し死んだ義人が不朽のいのちによみがえり、生きている聖徒は死を見ないで天に移され、喜びの歌をうたいながら共に神の都にのぼるのを彼は見た。PP 247.3

    さらに、もう1つの光景が彼の眼前に展開される。それは、のろいのなくなった地、今しがた彼の前にひろげられた美しい約束の地よりなお美しくなった地である。そこには、罪はなく、死も侵入することができない。救われた諸民族は、そこに永遠の故郷を見いだす。言葉に言い尽くせない喜びをもって、モーセはこの情景をながめる。それは、彼のどんな輝かしい想像も及ぼぬ栄光に満ちた解放の実現である。地上の放浪は永久に終わり、神のイスラエルは、ついに良い地に入ったのであった。PP 248.1

    ふたたび幻は消え、彼の目は遠くにひろがるカナンの地を見た。そして疲れ果てた戦士のように、彼は横たわって休んだ。「こうして主のしもベモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。主は彼をベテペオルに対するモアブの地の谷に葬られたが、今日までその墓を知る人はない」(申命記34:5、6)。モーセの在世中、彼の勧告に聞き従おうとしなかった多くの者は、もし彼の埋葬の場所を知ったならば、彼の遺体を偶像礼拝の対象とする危険があった。このために、それは人々から隠されたのであった。しかし神の使いたちが、この忠実なしもべのなきがらを埋葬し、さびしい墓を見守っていた。PP 248.2

    「イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセは主が顔を合わせて知られた者であった。主は……彼を……つかわして、もろもろのしるしと不思議を行わせられた。モーセはイスラエルのすべての人の前で大いなる力をあらわし、大いなる恐るべき事をおこなった」(申命記34:10~12)。PP 248.3

    もし、モーセの生涯が、カデシの岩から水を出す誉れを神に帰さなかったあの1つの罪で傷ついていなかったならば、彼は約束の地に入り、死を見ずに天に移されたことであろう。けれども、彼は長く墓の中にとどまらなかった。モーセを埋葬したみ使いたちを従えて、キリストご自身が天からおりてこられ、眠りについた聖徒を呼び起こされるのであった。サタンは、モーセに罪を犯させ、彼を死の支配下に置くことができたのを大いに喜んでいた。サタンは、「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」という神の宣告どおり、死者は自分のものだと主張した(創世記3:19)。墓の力は、かつて、打ち破られたことがなく、墓の中に入れられた者はみな自分のとりこであって、その暗い牢獄から解放することができない、と彼は主張した。PP 248.4

    このときはじめて、キリストは、死者に命を与えようとしておられた。いのちの君と輝く天使たちが墓に近づくと、サタンは自分の主権が脅かされるのを感じた。彼は悪天使たちと共に、自分のものと主張する領域を犯されまいとして抵抗した。サタンは、神のしもべが彼の牢獄に入れられたことを誇った。モーセでさえ、神の律法を守ることができず、主に帰すべき栄光を自分に帰し、サタンが天から追放されるに至ったのと全く同じ罪を犯して、そのために自分の支配下に置かれたのであるとサタンは言った。この反逆者の首領は、彼がかつて神の統治に対して投げた最初の非難をくり返し、彼に対する神の不正をつぶやいた。PP 248.5

    キリストは、サタンと論争しようとはされなかった。キリストは、惑わしによって多数の天の住民を滅ぼした残忍な彼のしうちを非難することがおできであった。また、アダムを罪に誘い、人類に死をもたらしたエデンの欺瞞を指摘することもおできになった。あるいは、イスラエルをいざない、不平と反抗にかり立てて、モーセの寛容と忍耐の緒を切らせ、無防備の一瞬をついて罪を犯させ、死の力のもとに陥れたことをサタンに思い起こさせることもおできになった。だ が、キリストはすべてを天父に委ね、「主がおまえを戒めて下さるように」と仰せになった(ユダ9)。キリストはサタンと論じられなかったが、そのときその場で、この堕落した敵の力を打ち破り、死者を生き返らせるみわざをお始めになった。ここに、サタンの言い争うことのできない神のみ子の権威が現された。永遠に復活が確かなものとされた。サタンは自分のとりこを奪われ、死んだ義人はふたたび生きることとなった。PP 248.6

    罪の結果、モーセはサタンの権力のもとに置かれていた。彼自身の功績によっては、彼は当然死の捕虜であった。だが彼は、贖い主のみ名の権威によって、永遠の命によみがえった。モーセは、栄光の体で墓から現れ出て、救い主と共に神の都にのぼった。PP 249.1

    キリストの犠牲によって実証されるまで、モーセをあつかわれた神の方法ほどに、著しく神の正義と愛をあらわしたものはほかになかった。神は、忘れてならない教訓、すなわち、神は厳密な従順をお求めになるということ、また、人は創造主に帰すべき栄光を自分に帰してはならないということを教えるために、モーセをカナンから締め出された。神は、イスラエルの嗣業にあずからせてほしいというモーセの祈りを受け入れることがおできにならなかった。しかし彼は、ご自分のしもべを忘れたり、捨てたりなさらなかった。天の神は、モーセが耐えてきた苦悩を理解し、争闘と試練の長い年月を忠実に仕えてきた1つ1つの行為をご存じであった。神は、ピスガの頂上で、地上のカナンとは比較にならないほど輝かしい嗣業にモーセをお召しになったのであった。PP 249.2

    モーセは、天に移されたエリヤと共に変貌の山に現れた。彼らは、天父からみ子に光と栄光を伝えるためにつかわされた。こうして幾世紀も前に捧げられたモーセの祈りがついに果たされた、彼は、神の民の嗣業の中にある「良い山地」に立ち、イスラエルの約束がことごとく集中しているおかたについてあかしをした(申命記3:25)。天の神に尊ばれたモーセが、歴史において、人間の目の前に現れたのはこれが最後である。PP 249.3

    モーセはキリストの型であった。彼は、自らイスラエルに告げていた。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」(同18:15)。イスラエルの群集を地上のカナンに導く準備をさせるために、神は、モーセを苦難と困窮の学校で訓練するのをよしとされた。天のカナンに向かう神のイスラエルには、天来の指導者としての務めを果たすのに、人間の教えを必要としない指揮官がおられる。だが、その彼も苦難を通して全うされ、こうして、「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル2:18)。われらの贖い主は、1つとして人間的弱さや欠陥を表されなかったが、われわれが約束の地に入ることができるために、死なれたのであった。PP 249.4

    「さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである」(同3:5、6)。PP 249.5

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