第52章 年ごとの祭り
本章は、レビ記23章に基づくPP 279.6
全イスラエルが、礼拝のために聖所に集まるのは、年に3回あった。しばらくの間、シロがこうした集会の場所になっていたが、後に、エルサレムが全国の礼拝の中心地になり、各部族は厳粛な祭りを行うためにここに集まった。PP 279.7
人々は、彼らの土地を奪おうとする荒々しい好戦的種族に取り囲まれていた。しかし、体のじょうぶな男たちと旅行に耐え得る者は皆、その家を離れて全国の中心近くにあった集会の場所へ行くように命じられていた。敵が、こうした無防備の家々に攻め込んで、火と剣で荒らすのを、いったい何が防いだのであろうか。神が、人々の保護者になることをお約束になっていたのである。「主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる」(詩篇34:7)。イスラエル人が、礼拝に行っている間、神の力が彼らの敵を抑えていた。「わたしは国々の民をあなたの前から追い払って、あなたの境を広くするであろう。あなたが年に3度のぼって、あなたの神、主の前に出る時には、だれもあなたの国を侵すことはないであろう」(出エジプト34:24)。PP 279.8
こうした祭りの第一のものは、ユダヤ暦の第1月、すなわちアビブの月に行われた過越の祭りと種入れぬパンの祭りで、これは(太陽暦の)3月末から4月の初めに当たる。寒い冬が過ぎ、後の雨も終わり、自 然はことごとく春の新鮮さと美を楽しんでいた。岡や谷の草は緑にもえ、いたる所に野の花が咲き乱れて、陽気であった。月は満月に近かったので、夜も楽しかった。聖書の歌人は、この季節を次のように美しく歌っている。PP 279.9
「見よ、冬は過ぎ、PP 280.1
雨もやんで、すでに去り、PP 280.2
もろもろの花は地にあらわれ、PP 280.3
鳥のさえずる時がきた。PP 280.4
山ばとの声がわれわれの地に聞える。PP 280.5
いちじくの木はその実を結び、PP 280.6
ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ」PP 280.7
(雅歌2:11~13)PP 280.8
人々は、全国からエルサレムへの巡礼の旅に出た。羊飼いは羊の群れから、牧者は山々から、漁師はガリラヤ湖から、預言者の子らは、預言者の学校からというように、すべての者が神の臨在のあらわされた場所へと、その足を向けた。徒歩で旅する者が多かったので、彼らは、休み休み進んでいった。旅人の群れは、続々合流して聖都に到着するまでには、大群集になることもしばしばあった。PP 280.9
美しい自然をながめて、イスラエルの人々の心は喜びに満ち、すべてのよい物の与え主なる神に感謝をあらわすのであった。彼らは、壮大なヘブルの詩を歌い、主の栄光と威光とをたたえた。合図のラッパの響きに、シンバルの音も加わって、感謝の合唱が始まると、それに幾百の声が和して、とどろき渡った。PP 280.10
「人々がわたしにむかって『われらは主の家に行こう』PP 280.11
と言ったとき、わたしは喜んだ。PP 280.12
エルサレムよ、われらの足はPP 280.13
あなたの門のうちに立っている。PP 280.14
……エルサレムよ、PP 280.15
もろもろの部族すなわち主の部族が、……PP 280.16
……主のみ名に感謝する……、PP 280.17
エルサレムのために平安を祈れ、PP 280.18
『エルサレムを愛する者は栄え』」PP 280.19
(詩篇122:1~6)PP 280.20
彼らの周りに、かつて異教徒がその祭壇の火をともした山々を見た時に、イスラエルの子らは歌った。PP 280.21
「わたしは山にむかって目をあげる。PP 280.22
わが助けは、どこから来るであろうか。PP 280.23
わが助けは、天と地を造られた主から来る」PP 280.24
(詩篇121:1、2)PP 280.25
「主に信頼する者は、動かされることなくて、PP 280.26
とこしえにあるシオンの山のようである。PP 280.27
山々がエルサレムを囲んでいるように、PP 280.28
主は今からとこしえにその民を囲まれる」PP 280.29
(詩篇125:1、2)PP 280.30
聖なる都の見える山まで登り、礼拝者の大群が、神殿に向かって進むのを見て、彼らの心は畏敬の念に満たされた。彼らは、香の煙が立ちのぼるのを見た。そして、聖なる儀式の時刻を知らせるレビ人のラッパの響きを聞いたとき、彼らも、深い感動をおぼえて歌った。PP 280.31
「主は大いなる神であって、PP 280.32
われらの神の都、その聖なる山で、PP 280.33
大いにほめたたえられるべき方である。PP 280.34
シオンの山は北の端が高くて、うるわしく、PP 280.35
全地の喜びであり、大いなる王の都である」PP 280.36
(詩篇48:1、2)PP 280.37
「その城壁のうちに平安があり、PP 280.38
もろもろの殿のうちに安全があるように」PP 280.39
「わたしのために義の門を開け、PP 280.40
わたしはその内にはいって、主に感謝しよう」PP 280.41
「わたしはすべての民の前でPP 280.42
主にわが誓いをつぐないます。PP 280.43
エルサレムよ、あなたの中で、PP 280.44
主の家の大庭の中で、これをつぐないます。PP 281.1
主をほめたたえよ」PP 281.2
(詩篇122:7、118:19、116:18、19)PP 281.3
エルサレムの住宅は、全部、旅人のために開放されて、へやは無料で提供された。しかし、それでも、集まった多くの人々を収容するには不十分で、都や周りの山々のあき地というあき地には、天幕が張られた。PP 281.4
その月の14日の夕方に、過越の祭りが行われた。それは、エジプトの奴隷からの解放を記念するとともに人々を罪から解放する犠牲を予表した厳粛で印象深い儀式であった。救い主がカルバリーでおなくなりになった時に、過越の祭りの意義はもうなくなり、過越の祭りが象徴していた同じ事件の記念として、主の晩餐儀式が制定された。PP 281.5
過越の祭りに引き続いて、7日間の種入れぬパンの祭りがあった。その初めの日と第7日は聖会であって、どのような労働もしてはならなかった。祭りの第2日に、その年の収穫の初穂を神の前に捧げなければならなかった。パレスチナでは、大麦が一番早い穀物で、祭りの初めに実り始めていた。祭司は、大麦の穂を神の祭壇の前で揺り動かし、すべての物が神のものであることを認めた。この儀式がすまなければ、作物を集めてはならなかった。PP 281.6
初穂を捧げてから50日目は、ペンテコステであった。それは、また、収穫の祭り、または7週の祭りとも呼ばれた。穀類が、食物として備えられたことの感謝の表現として、種を入れて焼いたパンを2つ、神の前に捧げた。ペンテコステは、ただ1日だけであったが、その日は、宗教の行事に捧げられた。PP 281.7
7月に、仮庵の祭り、または、取り入れの祭りがあった。この祭りは、神が果樹園やオリブ畑やぶどう園の産物を豊かに恵まれたことを認めたものであった。これは1年の祭りの中の最大の祭りであった。土地は産物を生じ、収穫は集めて倉に収められ、果物、油、酒などもたくわえられ、初穂は保存された。そして、今や、人々は、このように豊かに彼らをお恵みになった神に、感謝の供え物を携えてきたのである。PP 281.8
この祭りは、特に、喜びにあふれた祝典であった。それは、大いなる階罪の日の直後で、彼らの罪はもはや記憶されないという確証が与えられたあとであった。彼らは、神との和らぎを得て、神の恵みを感謝し、神の慈悲をたたえるために、今、神のみ前に来たのであった。収穫の労働はすみ、新しい年の労苦はまだ始まっていなかったので、人々は、なんの心配もなく、この聖なる、歓喜にあふれた祭りの雰囲気に、心から溶け込むことができたのである。祭りに出席することを命じられたのは、父とむすこたちだけであったけれども、できるだけ全家族が出席すべきであった。そして、しもべたち、レビ人、他国人、貧者などが、彼らのもてなしにあずかったのである。PP 281.9
仮庵の祭りは、過越の祭りと同様に、過ぎ去った出来事の記念であった。人々は、彼らの荒野の旅を記念して、家を離れ、仮庵、または、「美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝」などの緑の枝で作った仮小屋に住んだ(レビ23:40。42、43参照)。PP 281.10
第1日目は、聖会であった。そして、祭りの7日間は第8日目が加えられて、これも同様のことが行われた。PP 281.11
こうした年ごとの集会において、年長の者も青年も、神に仕える精神を助長される。それとともに、各地から参集した人々との交わりは、彼らと神との交わりと、お互いの間の交わりを強固にするのであった。現代においても、神の民が仮庵の祭りを祝うのは良いことである。それは、彼らに与えられた神の祝福を感謝して記念することであった。イスラエルの子らが、先祖のために行われた神の救済とエジプトからの旅の間の奇跡的保護とを祝ったように、われわれは、神があらゆる方法を講じて、われわれをこの世と誤りの暗黒の中から救い出して神の恵みと真理の尊い光の中に入れてくださったことを思い出して感謝すべきである。PP 281.12
幕屋から遠方のところに住んでいた者は、毎年、1か月以上も、年ごとの祭りに列席するために費やさなければならなかった。このような神への献身の例を 見るとき、宗教的礼拝の重要性と、われわれの利己的で世的な関心をおさえて、霊的で永遠に関することを助長することの必要性とを強く感じるべきである。神に仕えて、お互いを力づけ励まし合うために、共に交わる特権を怠る時に、われわれは損失をこうむる。神の言葉の真理は、われわれの心の中で、その活気と重要性を失ってしまう。われわれの心は、清めの力によって、啓発覚醒されなくなり、霊的に低下する。お互いに同情が欠けているために、クリスチャンとしてのわれわれの交わりにおいて大きな損失を招くのである。自分を自己の殼の中に閉じこめてしまうものは、神が彼のためにご計画になった場所を満たしていない。われわれは、みな、1人の天の父の子供たちで、お互いにその幸福は他に依存している。神の要求と人類の要求が、われわれに負わせられている。われわれの性質の社交的方面を正しく啓発させることによって、われわれは兄弟たちに同情を寄せるようになる。そして、他を祝福しようと努力することによって、われわれは幸福になるのである。PP 281.13
仮庵の祭りは、ただ単に記念であるだけでなく、象徴でもあった。それは、荒野の旅をふり返っていただけでなくて、収穫の祭りと同様に、大いなる日の最後の収穫を予表していた。収穫の主は、そのとき、刈り入れ人をつかわして、毒麦をたばねて火に焼き、麦は倉に収める。そのとき、すべての悪人は滅ぼされる。彼らは、「かつてなかったようになる」(オバデヤ16)。そして、全宇宙のすべての者は、神に対する喜ばしい賛美の声をあげる。「またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、『御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように』」(黙示録5:13)。PP 282.1
イスラエルの人々は、神が彼らをあわれんでエジプトの奴隷から解放し、荒野を旅していたときも、情け深くお守りになったことを思い出して、仮庵の祭りのときに神を賛美した。彼らは、また、終わったばかりの贖罪の日の儀式によって、赦され、受け入れられたことを自覚して喜んだ。しかし、主に贖われた者が、天のカナンに無事集められ、「被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている」のろいから永遠に解放される時に、彼らは、言葉で言い表せない喜びを味わい、栄想二満たされるのである(ローマ8:22)。人類のためのキリストの贖罪の働きはその時に終わるし、彼らの罪は、永久に消し去られるのである。PP 282.2
「荒野と、かわいた地とは楽しみ、PP 282.3
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、PP 282.4
さかんに花咲き、PP 282.5
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。PP 282.6
これにレバノンの栄えが与えられ、PP 282.7
カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。PP 282.8
彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る」PP 282.9
「その時、見えない人の目は開かれ、PP 282.10
聞えない人の耳は聞えるようになる。PP 282.11
その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、PP 282.12
口のきけない人の舌は喜び歌う。PP 282.13
それは荒野に水がわきいで、PP 282.14
さばくに川が流れるからである。PP 282.15
焼けた砂は池となり、PP 282.16
かわいた地は水の源となり、……PP 282.17
そこに大路があり、PP 282.18
その道は聖なる道ととなえられる。PP 282.19
汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、PP 282.20
愚かなる者はそこに迷い入ることはない。PP 282.21
そこには、ししはおらず、PP 282.22
飢えた獣も、その道にのぼることはなく、PP 282.23
その所でこれに会うことはない。PP 282.24
ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む、PP 282.25
主にあがなわれた者は帰ってきて、PP 282.26
その頭に、とこしえの喜びをいただき、PP 282.27
歌うたいつつ、シオンに来る。PP 282.28
彼らは楽しみと喜びとを得、PP 282.29
悲しみと嘆きとは逃げ去る」PP 282.30
(イザヤ35:1、2、5~10)PP 282.31