第55章 幼児サムエル
本章は、サムエル記上1章、2:1~11に基づくPP 296.5
エフライムの山地のレビ人エルカナは、富と勢力を持った人で、主を愛しおそれる人であった。彼の妻ハンナは、信仰のあつい女であった。優しく、謙遜で、非常な熱心さとあつい信仰とが彼女の性質の特徴であった。PP 296.6
ヘブル人ならだれでも、熱心に求める祝福が、この敬神深い夫婦には与えられなかった。彼らの家庭には、子供たちの喜ばしい声がなかった。そして、家名を永続させたいという願いは、他の多くの者と同じように、第二の結婚契約を結ばせるにいたった。しかし、これは、神に対する信仰の足りなさによるものであったために、幸福をもたらさなかった。家庭に、むすこ、娘は加えられた。しかし、神の聖なる制度の喜びと美とは傷つけられ、家族の平和は破られた。新しい妻のペニンナは、嫉妬深くて、心が狭く、高慢で横柄な態度を取った。ハンナにしてみれば、希望はくじかれ、人生は耐えられない重荷のように思われるのであった。しかし、彼女は、つぶやくことなく柔和に試練に耐えた。PP 296.7
エルカナは、忠実に神の定めを守った。シロでの礼拝は、なお続けられていたが、礼拝の勤めが不規則であったために、レビ人として果たすべきであった当然の奉仕は、聖所で要求されていなかった。それでも、彼は、定められた集会に家族と共に礼拝に行 き、犠牲を捧げた。PP 296.8
神の勤めに関連した聖なる祭りの中でさえ、彼の家庭にわざわいをもたらしたよこしまな精神が、頭をもたげた。感謝の捧げ物をすませた後、家族の者はすべて、定められた習慣に従って、厳粛ではあるが喜ばしい祝宴にあずかった。こうした際に、エルカナは、子供たちの母に1人前を与え、彼女のむすこ、娘たちにそれぞれ1人前の分け前を与えた。そして、ハンナには、彼女に対する思いのしるしとして、2人前を与えた。これは、彼女がむすこを持ったのと同様に、彼の、彼女に対する愛情を表したものであった。すると、第二の妻は、嫉妬に燃えて、自分は大いに神に恵まれている者として優位を誇り、ハンナに子供がないのは神の怒りのしるしであると言って彼女を悩ました。こうしたことが毎年くりかえされ、ついにハンナは耐えられなくなった。彼女は悲しみを隠しきれずに泣き伏して、祝宴の席から去った。夫の慰めのことばもむだであった。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって10人の子どもよりもまさっているではないか」と彼は言った(サムエル上1:8)。PP 297.1
ハンナは、人を責める言葉を出さなかった。地上の友に打ち明けられない重荷を、彼女は神に委ねた。ハンナは、神が恥を除いて、彼女にむすこという尊い賜物を賜わり、その子を神のために養育し、訓練することができるようにと熱心に願い求めた。そして、彼女は、自分の願いがかなえられるならば、その子を生まれた時から神に捧げることを厳粛に神に誓った。ハンナは、幕屋の入口近くに寄って、深く悲しみ、「祈って、はげしく泣いた」(同1:10)。しかし、ハンナは、何も言わずに静かに神と交わった。当時の邪悪な時代にあってこうした礼拝の光景はめったに見られなかった。宗教的な祭りの時でさえ、神を敬わない飲食、酔酒などはいつものことであった。そして、大祭司のエリは、ハンナを見ていて、彼女が酒に酔ったものと考えた。彼は、譴責のつもりできびしく言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」と(同1:14)。PP 297.2
ハンナは心を痛め、驚いて、静かに答えた。「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」(同1:15、16)。PP 297.3
大祭司は神の人であったので、非常に心を動かされた。そして、譴責の代わりに祝福を与えた。「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」(同1:17)。PP 297.4
ハンナの祈りは、聞きとどけられた。彼女は、心から願い求めた賜物を受けたのである。彼女は子供を見て、サムエル(神に求めた)と名づけた。幼児が母親から離れられるほどになるやいなや、ハンナは、誓いを果たした。ハンナは、世の母親の持つ愛情の限りを尽くして、自分の子を愛した。日ごとにむすこの力が強くなり、子供らしい片言に耳を傾けるにつれて、彼女は、ますます深くサムエルを愛した。彼は、ハンナの1人子であり天からの特別の賜物であった。しかし、彼女は、サムエルを神に捧げた宝として受けた。そして、神ご自身のものを与え主なる神に返さず、留めておこうとはしなかった。PP 297.5
ハンナは、もう1度、夫と共にシロに出かけて、神の名のもとに、彼女の尊い賜物を祭司に捧げて言った。「この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました。それゆえ、わたしもこの子を主にささげます。この子は一生のあいだ主にささげたものです」(同1:27、28)。エリは、イスラエルのこの女の信仰と献身に深く感動した。エリは、自分自身が子供を甘やかして育てた父親であったので、神の奉仕に捧げるために、自分の1人子と離れる母親の崇高な犠牲を見て畏敬の念に打たれ、恥ずかしく思うのであった。彼は、自分の利己的な愛を責められ、へりくだって、うやうやしく主の前に頭をたれて礼拝した。PP 297.6
母親の心は、喜びと賛美にあふれた。そして、神に対する感謝の気持ちを表したいと思った。彼女は霊感に満たされた。「ハンナは祈って言った、PP 297.7
『わたしの心は主によって喜び、PP 298.1
わたしの力は主によって強められた、PP 298.2
わたしの口は敵をあざ笑う、PP 298.3
あなたの救によってわたしは楽しむからである。PP 298.4
主のように聖なるものはない、PP 298.5
あなたのほかには、だれもない、PP 298.6
われわれの神のような岩はない。PP 298.7
あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、PP 298.8
たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。PP 298.9
主はすべてを知る神であって、PP 298.10
もろもろのおこないは主によって量られる。……PP 298.11
主は殺し、また生かし、PP 298.12
陰府にくだし、また上げられる。PP 298.13
主は貧しくし、また富ませ、PP 298.14
低くし、また高くされる。PP 298.15
貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、PP 298.16
乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、PP 298.17
王侯と共にすわらせ、PP 298.18
栄誉の位を継がせられる。PP 298.19
地の柱は主のものであって、PP 298.20
その柱の上に、世界をすえられたからである。PP 298.21
主はその聖徒たちの足を守られる、PP 298.22
しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。PP 298.23
人は力をもって勝つことができないからである。PP 298.24
主と争うものは粉々に砕かれるであろう、PP 298.25
主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、PP 298.26
地のはてまでもさばき、PP 298.27
王に力を与え、PP 298.28
油そそがれた者の力を強くされるであろう』」PP 298.29
(サムエル記上2:1~10)PP 298.30
ハンナの言葉は、イスラエルの王として支配するダビデと、主に油そそがれたメシヤとの両方を預言したものであった。歌は、まず、無礼で争い好きな女の高慢さを歌っているが、神の敵が滅ぼされて、神に腰われた人々が最後の勝利を得ることをさしている。PP 298.31
ハンナは、大祭司の教育のもとで、神の家の奉仕のための訓練を受けることができるように、幼児サムエルを残して、静かにシロからラマの家に帰った。子供の物ごころがつき始めたころから、彼女は、その子に神を愛し敬うことを教え、子供自身が主のものであることを自覚するように教えた。彼女は、サムエルの周りにある見なれたあらゆるものによって、彼の心を創造主に導こうと努めた。子供と別れてからも、彼女の忠実な母としての心づかいがやんだのではなかった。サムエルは、彼女の日ごとの祈りの主題であった。彼女は、毎年、手ずから彼の仕事着を作った。そして、主人と共にシロに礼拝に上ったとき、彼女はこの愛のしるしを子供に与えたのである。小さな着物の一糸一糸は、サムエルが、清く気高く真実になるようにという祈りによって織られた。ハンナは、そのむすこが世的に偉大になることを求めるのでなくて、彼が天の認める偉大さに達することを熱心に求めた。すなわち、それは彼が神をあがめ、同胞を祝福することであった。PP 298.32
ハンナには、どんな報いが与えられたことであろう。そして、彼女の模範は、忠実であることに対してなんという激励を与えていることであろう。測り知れない価値のある機会と、無限に尊い有利な立場とが、すべての母親に委ねられている。女がたいくつな仕事と考える日常のいやしい務めは、偉大で高貴な働きとみなされなければならない。母親には、その感化力によって世界を祝福するという特権がある。そして、そうすれば、彼女自身の心にも喜びがわくのである。彼女は、照っても曇っても輝くみ国へ行く子供たちの足のために、まっすぐな道を備えるのである。しかし、それは、母親が自分自身の生活において、キリストの教えに従おうとする時にのみ、子供たちの品性を神のみかたちにかたどって形成することを望みうるのである。世の中には、腐敗的感化がみなぎっている。流行や慣習が青年たちに強く働きかけている。もしも母親が、教え、導き、制する義務を怠るならば、子供たちは、自然と悪に従い、善から離れていく。すべての母親は、たびたび救い主のみもとに行って、「どのように子供をしつけ、子供に何をしたらよいかを教えてください」と祈らなければならない。母親は神 がみことばの中にお与えになった教えに心を向けるとよい。そうすれば、必要に応じて、知恵が与えられることであろう。PP 298.33
「わらべサムエルは育っていき、主にも、人々にも、ますます愛せられた」(サムエル上2:26)。サムエルの青年時代は、神の礼拝のために捧げられて、神殿で過ごしたとはいえ、罪深い生活の悪い感化がなかったわけではない。エリのむすこたちは、神をおそれず彼らの父を尊ばなかった。しかし、サムエルは、彼らとの交わりを求めず、彼らの悪い行為をまねなかった。彼は、神のお望みになるものになろうと常に努力した。これはすべての青年の特権である。神は、小さい子供たちでも、神のご用のために自分自身を捧げることをお喜びになる。PP 299.1
サムエルは、エリの指導のもとにおかれた。そして、サムエルの美しい品性にひかれて、年老いた祭司は、非常に彼をかわいがった。サムエルは、親切、寛大、従順、ていねいであった。エリは、自分の子供たちのわがままに心を痛めていたが、サムエルが彼に委ねられてから、休息と慰めと祝福とが与えられた。サムエルは、よく手助けをし、愛情がこまやかであった。そして、エリはこの地上のどの父親よりも優しくサムエルを愛した。国家の政治をつかさどる者とほんの少年との間に、このような温かい愛情が通い合うとは、不思議なことであった。エリが老齢のためにだんだん衰弱してくると、彼自身のむすこたちの放縦な生活を憂えて苦しむのであったが、彼は、サムエルに慰めを求めた。PP 299.2
レビ人は、25歳になって初めてそれぞれの任務につくのが慣例になっていたが、サムエルは例外であった。サムエルには、毎年、さらに重要な任務が負わせられた。そして、彼がまだ子供であったうちから、聖所の働きに献身したしるしとして、布のエポデをつけていた。サムエルは、幕屋の働きをするために連れてこられた時は幼かったけれども、その時でさえ、彼の力量に応じた任務を負わせられて、神のご用を果たした。初め、このような仕事は、非常にいやしいことで、必ずしも快いものではなかった。しかし、彼は、最善を尽くして、喜んでその務めを果たした。彼は、人生のすべての義務を宗教的信念をもって行った。彼は、自分を神のしもべとみなし、彼の働きを神の働きと考えた。彼の努力は受け入れられた。それは、彼の努力が、神への愛と、神のみこころを行おうとする真剣な願望によるものであったからである。こうして、サムエルは、天地の主と共に働く者となった。そして、神は、彼をイスラエルのために、大事業を完成するにふさわしい者となさった。PP 299.3
日常の小さな義務をくりかえして行うことは、主が子供たちのために指示された道であり、それは、彼らが忠実に力ある奉仕をするための訓練を受ける学校であることを、子供たちに教えるならば、彼らの仕事は、どんなに楽しく尊いものとなることであろう。すべての義務を主のためにするように行うことは、どんなにいやしい仕事をも魅力あるものにし、地上の働き人を、天で神のみこころを行う天使たちと結合させるのである。PP 299.4
この世で成功を収め、来世の獲得にも成功することは、小事を忠実に、良心的に行うことにかかっている。完全さは、神のお造りになったものの中の大きいものと同様に、小さいものの中にも見られる。宇宙に諸世界を掛けた手は、巧みに野の花を造った手であった。そして、神がその領域で完全であられるように、われわれも、われわれの領域で完全でなければならない。均整のとれた強く美しい品性は、1つ1つの義務を行う行為によって築かれる。そして、われわれの人生の大きな事と同様に小さい事においても、忠実さが特徴とならなければならない。小事に忠実であること、小さな忠誠ある親切な行為は、人生の道を楽しいものにする。そして、われわれの地上の仕事が終わった時に、われわれが忠実に行った義務の1つ1つは、よい感化を及ぼしたことを知る。そうした感化は、いつまでも消えないのである。PP 299.5
サムエルと同様に、現代の青年も神の御目に尊いものとみなされることができる。彼らは、クリスチャンとしての忠誠を保つことによって、改革の働きのために強い感化を及ぼすことができる。こうした人が今 日必要である。神は、彼らの一人一人のなすべき働きを持っておられる。今日、神の信頼に忠実である者は、これまでどんな人もなし得なかった大きなことを、神と人類のためになしとげるのである。PP 299.6