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人類のあけぼの - Contents
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    第58章 預言者の学校

    イスラエルの教育は、主ご自身が指導された。彼の関心は、彼らの宗教的福祉だけに限られてはいなかった。彼らの知的、また体的幸福に影響を与えるものは、なんでも神の摂理の課題であり、神の律法の範囲内にあった。PP 309.7

    子供たちに神の要求を教え、先祖たちに対する神の処置のすべてを彼らに良く教えるように、神はヘブル人に命じておられた。これは、すべての親の特別の義務で、他人に委託できないものであった。他人のくちびるではなくて、父親と母親の愛の心からの教えが、子供たちに与えられなければならなかった。日ごとの生活のすべての出来事に、神の思想が関連づけられなければならなかった。神の民の救済にあらわされた神の大きなみわざ、そして、来たるべき贖い主の約束は、イスラエルの家庭で、くり返し語られるべきであった。そして、典型や象徴を用いて、その教訓をしっかりと心に銘記することができたのであった。神の摂理と来世に関する大真理が若い心に強 い印象を与えた。若い心は自然の光景にも、啓示の言葉にも、同じように神を認める訓練を受けた。天の星々、平原の樹木、草花、高山、小川のせせらぎなどのすべては、創造主について語っていた。聖所の厳粛な犠牲の儀式、聖所の礼拝、預言者の言葉は神の啓示であった。PP 309.8

    モーセは、ゴセンのそまつな住宅でこのような教育を受けたのである。サムエルは、忠実なハンナから教えられた。ダビデは、ベツレヘムの丘の住居で、こうした訓練を受け、ダニエルは、捕虜として連れ去られるまで、父の家で、こうした訓練を受けた。ナザレにおけるキリストの幼少時の生活も、このようなものであった。また少年テモテが祖母ロイスと母ユニケの口から聖書の真理を学んだのも、こうした訓練によってであった(Ⅱテモテ1:5、3:15参照)。PP 310.1

    さらに、青年教育の施設として、預言者の学校が建てられた。もし、青年が、神の言葉の真理をもっと深くさぐり、上からの知恵を求めて、イスラエルの教師になろうと望むならば、彼らは、こうした学校に入ることができた。預言者の学校は、腐敗が広がるのを防ぐ防壁としてサムエルが創立したもので、青年の道徳的、霊的幸福に貢献し、指導者や助言者として、神をおそれて行動する資格のある人物を養成して、国家の将来の繁栄に資するためであった。サムエルは、この目的を達成するために、神をおそれ、知的で勤勉な青年を多く集めた。彼らは預言者の子と呼ばれた。彼らが神と交わり神の言葉と神のみわざを学んだ時に、彼らの生来の賜物に天の知恵が加えられた。教師は、神の真理に良く通じているばかりでなくて、自分たち自身が神との交わりを経験し、神の霊の特別な賜物を受けた人々であった。彼らは、学識と信仰の両面において、人々の尊敬と信頼をかち得ていた。PP 310.2

    こういう学校は、サムエルの時代に2つあって、1つは、預言者の故郷のラマにあり、もう1つは、そのとき箱が置かれていたキリアテ・ヤリムにあった。その後、ほかにも学校が設立された。PP 310.3

    学校の生徒は、土を耕すとか、あるいは何かの筋肉労働に従事して、自分で働いて自活した。イスラエルにおいてこれは不思議でも卑しいことでもなかった。実際、子供に有用な仕事を教えないで育てることは、罪悪であると思われていた。どのような高い地位につくための教育を受ける子供であっても例外なく、すべての子供に、何かの職業を教えることが、神の命令であった。宗教の教師のなかには、肉体労働によって自給した者が多くあった。使徒時代に及んでも、パウロとアクラは、天幕作りを職業として生計を立てたが、そのために卑しめられることはなかった。PP 310.4

    学校の主要科目は、神の律法とモーセに与えられた教訓、神の民の歴史、聖楽、詩歌などであった。その教授法は、現代の神学校の教授法とは非常に異なっていた。今日、多くの学生は、入学した時よりも、神と宗教的真理に関して真の知識を持たずに神学校を卒業する。昔の預言者の学校では、神のみこころと神に対する人間の義務を学ぶことが、すべての研究の大目的であった。神の民の歴史の記録の中に、主の足跡をたどることができる。偉大な真理が型によって明らかに示され、その全制度の中心目的が、世の罪を取り除く神の小羊であることを、彼らは信仰によって悟ったのである。PP 310.5

    彼らは、献身の精神をいだいていた。学生は、祈りの義務について教えられただけでなくて、祈る方法と創造主に近づく方法、神に対する信仰の働かせ方、そして、聖霊の教えを理解して服従する方法などを教えられた。彼らは、清められた知性によって、神の蔵から新しいものや古いものを取り出した。そして、神の霊は、預言と聖歌の中に表された。PP 310.6

    音楽は聖なる目的のために用いられ、清く、気高く、高尚なことに人の思想を高め、魂のうちに、神への献身と感謝の念を起こさせた。こうした古代の習慣と、現在音楽がしばしば用いられている方法との間には、なんと大きな相違があることであろう。神に栄光を帰すために用いるかわりに、自己を高めるためにこの賜物を用いる者がなんと多いことであろう。不注意な者は、音楽を愛好する心から、世俗愛好者と一緒になって、神が神の子らに行くことを禁じられた快楽 の集会に行くようになる。こうして、正しく用いられるならば、大きな祝福であるものが、義務と永遠のことがらを瞑想することから人の心をそらすサタンの最も有効な道具となる。PP 310.7

    音楽は、天の宮廷の神の礼拝の一部になっている。であるから、われわれは、できるかぎり、天の合唱隊と調和した声で、賛美の歌をうたうように努力しなければならない。声の正しい訓練は教育の重要な一面であって、怠ってはならないことである。歌は、祈りが礼拝の行為であるのと同様に、宗教的礼拝の一部である。歌を正しく表現しようとするには、歌の精神をよく心に感じなければならない。PP 311.1

    神の預言者が教えたこれらの学校と現代の教育機関との間には、なんと大きな相違があることであろう。世の教訓と習慣に支配されない学校は、なんとその数が少ないことであろう。適宜に制限を加えたり、正当な罰を与えたりすることが、嘆かわしいほど欠けている。現在、クリスチャンと自称する人々の間での神の言葉に関する無知は、驚くばかりである。表面的な話や、単なる感傷主義が、道徳や宗教の教えとして通用している。神の正義と憐れみ、美と聖、正しい行為の確実な報賞、罪の恐ろしい性質とその恐ろしい結果の確実性などが、若い者の心に強く教え込まれていない。悪友たちが、犯罪と気晴らしと放縦との道を青年たちに教えている。PP 311.2

    今日の教育家が古代のヘブルの学校から、何か有益な教訓を学ぶことができないものであろうか。人間を創造された方は、その体と心と魂の発達のために必要なものをお備えになった。であるから、教育の真の成功は、人間が創造主の計画を忠実に実行するか否かにかかっている。PP 311.3

    教育の真の目的は、魂のうちに神のみかたちを回復することである。最初に、神は、ご自分のかたちにかたどって人を創造された。神は、人間にすぐれた性質をお授けになった。人間の心は、良く均衡がとれていて、そのすべての能力には調和があった。しかし、堕落とその結果によって、これらの賜物はゆがめられてしまった。罪は、人間の中の神のかたちを、ほとんど消し去った。これを回復するために、救いの計画がたてられ、人間に猶予の期間が与えられた。最初に創造された時の完全な状態に人間を回復することが人生の大目的であって、その他のすべてのものの根底に流れる目的である。青年の教育に当たって、神の目的に協力することが、親や教師の務めである。そうすれば、彼らは、「神の同労者である」(Ⅰコリント3:9)。PP 311.4

    人間が持っている心と魂と体の種々の能力は、すべて神から授かったものであるから、それらを活用して最高にすぐれたものにしなければならない。しかし、これは、利己的で排他的修練ではない。なぜなら、われわれが、似ようとしている神の品性は、慈悲と愛に富んだものだからである。創造主が、われわれにお授けになったすべての能力とすべての性質は、神の栄光と同胞の向上のために用いなければならない。そして、このように活用することが、最も清く、最も気高く、最も幸福な活動である。PP 311.5

    この原則の重要性を認めて、それに忠実に従うならば、現代の教育法のどこかに根本的変化が起こることであろう。教師は、誇りと利己的野心に訴えて、競争心をかき立てようとせずに、善と真理と美を愛する心を起こさせ、美徳を望む心を起こさせようと努力するであろう。学生は、他を越えるためではなくて、創造主のみこころを実現し、神のかたちに似るために、自分に与えられた神の賜物を伸ばそうとするであろう。単に、地上の標準をめざしたり、それ自身萎縮作用を持っている自己高揚の欲望に動かされたりするかわりに、心は創造主に向けられて、彼を知り、彼のようになろうとするであろう。PP 311.6

    「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである」(箴言9:10)。人生の大事業は品性の建設であって、神を知ることはすべての真の教育の基礎である。この知識を与え、それに調和した品性を形成することが、教師の仕事の目的でなければならない。神の律法は、神の品性の写しである。だから、詩篇記者は言っている。「あなたのすべての戒めは正しい」「わたしはあなたのさとし によって知恵を得ました」(詩篇119:172、104)。神は、神のみことばと創造のわざの中に、ご自身を現された。霊感によって書かれた書物と自然の書物とによって、われわれは神の知識を得なければならない。PP 311.7

    人間の心は、考えるように訓練された問題に、次第に順応してくるものである。ただありふれたつまらぬことだけを考えていると、心は萎縮して衰弱する。困難な問題と取り組むことが全然なければ、しばらくするうちに、成長する力をほとんど失ってしまう。PP 312.1

    教育する力として、聖書に匹敵するものはない。心は、神のことばの中に最も深遠な思想と最も崇高な熱望の主題を見いだす。聖書は、人間が所有する最も教訓の豊かな歴史である。それは、永遠の真理の根源から直接与えられたものである。そして、神のみ手が各時代を通じて、その純粋性を保持してきた。それは、人間的研究によっては、見通すことのできない遠い過去を照らし出している。神のみことばの中に、地球の基礎をすえ、天を張った力を見る。人間の偏見と誇りに汚されていない人類歴史を発見できるのは、ただここだけである。ここに、世界最大の人物の苦闘と敗北と勝利とが記録されている。ここに、義務と運命の大問題が展開されている。見える世界と見えない世界を隔てている幕が揚げられて、罪が最初に侵入した時から、義と真理が最後に勝利するまでの善と悪の軍勢の争闘を見るのである。そして、すべては、神の品性の啓示に過ぎない。神の言葉に示された真理を敬虔な心で瞑想するとき、学生の心は、無限の心との交わりに入れられる。こうした研究は、品性を洗練して高尚にするばかりでなく、知力を拡大し、活気づけずにはおかないのである。PP 312.2

    聖書の教訓は、この生涯のあらゆる関係における人間の繁栄に、重大な関連を持っている。それは、国家の繁栄の礎石である原則を提示している。それは社会の幸福と密接に結びつき、家庭を保護する原則である。この原則を度外視しては、誰一人現世で有用な人物として幸福になり、栄誉を受けることはできない。また、将来永遠の生命を受けることを望むこともできない。人生のどんな地位、どんな経験であっても、聖書は、それに対する必要な準備を教えている。神の言葉を研究して服従するならば、人間哲学のあらゆる分野の周到な研究にまさって、もっと強力で、知性の活発な人物が世に送り出されることであろう。それは、力と強固な品性を持った人物、鋭い洞察力と正しい判断の人、神を敬い、世界の祝福となる人々を起こすであろう。PP 312.3

    科学の研究においても、また、創造主の知識を得なければならない。すべての真の科学は、物質界における神のみ手の跡の解釈に過ぎない。科学は、その研究の中から、創造主の知恵と能力の新しい証拠を提出するに過ぎない。自然の書物と書かれた言葉とは、正しく理解するならば2つとも神がお用いになる法則が、知恵と慈愛に満ちたものであることをわれわれに教えて、われわれを神に近づけるのである。PP 312.4

    学生は、創造のすべてのわざの中に神を見るように導かれる必要がある。教師は、自然の卑近な光景から例話を引いて教えを単純にし、聴衆の心に深い印象をお与えになった大教師の模範にならわなければならない。葉の茂った木の枝でさえずる小鳥、谷の草花、巨大な樹木、実り豊かな田畑、芽を出す穀類、不毛の土地、空を黄金色に染める日没などは、皆、教育の資料であった。彼は、創造主の目に見えるみわざと、彼が語られた生命の言葉とを統合された。それで、彼の聴衆がそれらの光景を見た時には、いつでも、彼がそれらに結びつけられた真理の教訓を思い出すのであった。PP 312.5

    啓示のページに明らかな神の印は、高山や、実り豊かな谷間、広く深い大海に見られる。自然界は、創造主の愛を人間に語る。神は、天と地の中の無数のしるしによって、ご自身をわれわれに結びつけられた。この世界はすべてが悲しみと悲惨ではない。「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:16)という言葉が、すべての開くつぼみに、すべての花びらに、すべての草の上に書かれている。罪ののろいが、地にとげやあざみを生えさせたけれども、あざみには花が咲き、とげはばらの花でおおわれている。自然界のものは、みな、 父親のように思いやりのある神の保護と、子供たちの幸福を願う神の心を証拠立てている。神の禁止や命令は、ただ神の権威を誇示するだけのものではない。神は、神の子供たちの幸福を考えて万事を行われる。神は、彼らが所有することが最も幸福であるものを、何1つ捨てることをお命じにならない。PP 312.6

    社会の一部の人々は、宗教が、健康またはこの世の幸福を増進するものでないと考えているが、これは、はなはだしいまちがいの1つである。聖書には次のように書いてある。「主を恐れることは人を命に至らせ、常に飽き足りて、災にあうことはない」(箴言19:23)。「さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ」(詩篇34:12~14)。「それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである」と知者は言っている(箴言4:22)。PP 313.1

    真の宗教は、身体的、知的、道徳的に、人間を神の律法に調和させる。それは、自制と落ち着きと節制とを教える。宗教は、精神を高尚にし、趣味を洗練し、判断を清める。それは、人間を天の清らかさを持った者とする。神の愛と摂理の支配を信じる信仰は、心配や苦労の重荷を軽くする。それは、人間がどんなに高められようが、どんなに低い境遇におかれようが、心を喜びと満足で満たす。宗教は、直接健康の増進と長寿に寄与し、人生のすべての祝福の楽しみを増す。それは、人の心に尽きることのない幸福の泉を開く。それは、人々が求めているものよりもはるかにすぐれたものをキリストは与えようとしておられることを、キリストを受け入れていないすべての者が悟ることを望むのである。人間が神のみこころに反して思考し、行動するとき、その人は、自分自身に対して、最大の危害と不正を行っているのである。被造物の最善を知って、彼らの幸福のためにご計画になる神が禁じられた道で、真の喜びを見いだすことはできない。罪の道は、不幸と破滅に陥れるが、知恵の「道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である」(同3:17)。PP 313.2

    ヘブルの学校で行われた体育教育は、宗教教育と同様に有益な研究である。こうした教育の価値が認められていない。精神と肉体は、非常に密接な関係がある。であるから、道徳的、また、知的に高い標準に達しようと思うならば、われわれの身体をつかさどる法則に注意しなければならない。強力で平均のとれた品性を得ようとすれば、知的、身体的能力の両方を運動させて、発達させなければならない。青年が、神から与えられたこの驚くべき身体について研究し、からだを健康に保つための法則を研究すること以上に重要な研究がほかにあろうか。PP 313.3

    イスラエルの時代と同様に、現在でも、すべての青年は実際生活の義務について教えを受けなければならない。誰でも、何かの職業の知識を獲得し、もし必要ならば、生計を立てられるようにしなければならない。これは人生の浮沈に対する備えとしてばかりでなく、身体的、知的、道徳的発達上からも重要なことである。肉体労働によって生計を立てる必要がないことがはっきりわかっている者であっても、なお働くことを教えなければならない。肉体の運動をしなければ、誰もじょうぶな体と活気に満ちた健康を保持することはできない。そして規律に従った労働の訓練は、強く活気のある精神と、高貴な品性の獲得に欠くことのできないものである。PP 313.4

    学生は、だれでも1日の一部分を活発な労働に当てなければならない。こうして、青年は、勤勉の習慣が身につき、自分に自信が持てるようになるとともに、怠慢の結果陥りがちな多くの悪習慣から守られるのである。そして、これは、教育の主要目的にかなっている。というのは、活動、勤勉、純潔を奨励することによって、われわれは創造主と調和するからである。PP 313.5

    青年たちに、彼らの造られた目的が、神をあがめ、同胞を祝福することであることを理解させよう。天の父が彼らにあらわされた慈悲深い愛を彼らに認めさせよう。また、彼らが人生の訓練によって、大きな運命に対する準備が与えられ、神の子となるように、 尊く栄誉ある召しにあずかっていることを悟らせよう。そうすれば、幾千という青年たちは、低い利己的な目的と、これまで彼らの心を奪っていた軽はずみな快楽をきらって離れることであろう。彼らは、報賞を望む心や、罰を恐れる気持ちからではなくて、罪そのものの卑劣さを感じて、罪を憎み、それを避けるようになる。なぜなら、それが神から与えられた能力を低下させ、神のかたちに造られた人間性に汚点をつけるからである。PP 313.6

    神は、青年たちに大望をいだくなとはお命じにならない。成功を収めて、人々の尊敬をかち得る品性の特質、すなわち、何か大きな善事をしたいという抑えきれない願望、不屈の意志、奮闘努力、堅忍不抜の精神といったものは、打ちくだいてしまってはならない。そうしたものは、神の恵みによって、天が地よりも高いのと同じように、ただ利己的で現世的なものよりは、はるかに高尚な目的に向けられなければならない。そして、現世で始められた教育は、来世にまで続くのである。神の驚くべきみわざ、宇宙を創造してそれを支持しておられる神の知恵と能力の証拠、救いの計画に表された愛と知恵の無限の神秘が、日ごとに新しい美しさをもって人の心に開かれる。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(Ⅰコリント2:9)。われわれは、現世でも神の臨在をかすかながら悟り、天の交わりの喜びを味わうことができる。しかし、その完全な喜びと祝福を達成できるのは、来世である。神のかたちに回復された人間の輝かしい運命を示すことができるのは、ただ永遠だけである。PP 314.1

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