第16章 ヤコブとエサウ
本章は、創世記25:19~34、27章に基づくPP 87.6
イサクのふたこのむすこ、ヤコブとエサウは、その性質も、生活ぶりも著しく異なっていた。この相違は、彼らの誕生の前から神の天使に予告されていた。天使は、リベカが苦しみながら祈ったときに、2人のむすこが彼女に与えられること、そして、おのおのが大きな国民の先祖になり、1人が他よりも偉大になり、弟が優位を占めるに至る彼らの将来の歴史などを、彼女に明らかにした。PP 87.7
エサウは自分を楽しませることを好み、ただ現在のことばかりに心を奪われて成長した。彼は、束縛に耐えられず、自由奔放な狩りを楽しみ、早くから猟師の生活を選んだ。しかし、彼は父親のお気に入りで あった。物静かで、平和を愛する牧羊者は、長子の勇気と活気に心をひかれた。エサウは、恐れることなく、山や砂漠を歩き回って、父親に獲物を持って帰り、心おどる冒険談を話して聞かせるのであった。ヤコブは、思慮深く、忠実で用心深く、現在のことよりは将来のことを考えていたので、家にいて家畜の世話をしたり、土を耕したりして満足していた。母親は、彼の忍耐力、倹約の精神、先見の明などを高く評価した。ヤコブの愛情は深く強かった。そして、彼の物静かで根気強い思いやりの精神は、エサウの荒々しい、時おりの親切よりは、彼女により大きな幸福感を与えた。リベカにとって、ヤコブはいとしいむすこであった。PP 87.8
まずアブラハムに与えられ、そして、そのむすこに確証が与えられた約束は、イサクとリベカの心の大きな願いであり希望であった。エサウとヤコブは、その約束をよく知っていた。彼らは、長子の特権を非常に重要なものと考えるように教えられていた。というのは、それが、ただ単にこの地上の富の相続だけでなくて、霊的に優位が与えられることをも含んでいたからである。それを受ける者は、家族の祭司となり、その子孫からこの世界の贖い主が出ることになっていた。一方、長子の特権を受けた者は責任も負わされた。祝福の継承者は、彼の生涯を神の奉仕にささげなければならなかった。彼は、アブラハムのように、神の要求に従順でなければならなかった。結婚、家庭関係、公の生活などで、彼は、神のみこころをうかがわなければならなかった。PP 88.1
イサクは、こうした特権と条件とをむすこたちに知らせ、長子の特権を受けるのは、長子のエサウであることを言明した。しかし、エサウは献身を好まず、宗教生活を送る気持ちがなかった。彼にとって、霊的な長子の特権に付随した要求は、好ましくないというよりはやっかいな制限とさえ思われた。アブラハムと神との契約の条件であった神の律法は、奴隷のくびきのようにエサウには思われた。彼は放縦を好み、ただ自分の欲するままにふるまう自由を望むだけであった。彼にとって、権力と富、飲食と宴楽が幸福なのであった。彼は、なんの束縛もない奔放な流浪の生活の自由を誇った。リベカは、天使の言葉を覚えていて、夫よりはもっとはっきりした洞察力でむすこたちの性格を読んだ。神の約束の相続権は、ヤコブのためにあるかのように彼女は思い込んだ。リベカは、イサクに天使の言葉を語った。しかし、父親の愛情は長子に注がれていて、がんとして自分の意志を変えなかった。PP 88.2
ヤコブは、長子の特権が自分に与えられるという神の告示を母親から聞き、なんとかしてその特権を自分のものにしたいという言葉には表現できない願望に満たされた。彼が渇望したのは、父親の富を所有することではなかった。彼が願い求めたものは、霊的長子の特権であった。義人アブラハムのような神との交わりにはいり、家族のために犠牲をささげ、選民と約束の救い主の先祖となり、契約の祝福に含まれている永遠の嗣業にあずかることなどが、彼の熱心に求めてやまない特権であり、誉れであった。彼の心は常に将来のことに向けられ、目には見えない祝福を得ようと努めていた。PP 88.3
彼は、霊的祝福について、父親が語るすべてのことをひそかな願いをいだいて聞き入った。そして、母親から聞いたことも大切に心に秘めていた。彼は、日夜そのことばかり考えていたので、それが彼の生活の最も重大な関心事となった。しかし、ヤコブは、このように現世の祝福よりは永遠の祝福を尊重はしたが、まだ彼の敬う神について体験上の知識はなかった。彼の心は神の恵みによって新たにされていなかった。彼は、兄が長子の権利を保持するかぎり、自分に関する約束は実現し得ないと思った。そして、彼は、兄が軽視しても自分には非常に貴重なその祝福を確保しようと、絶えず策略をめぐらしていた。PP 88.4
ある日、エサウが狩りから疲れ果てて帰ってきて、ヤコブが煮ていた食物を要求した。ヤコブは、始終このことばかりを考えていたので、この機を逸せず、長子の特権とひきかえに兄の飢えを満たそうとした。「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」と、無分別でわがままな狩人は叫ん だ。こうして、エサウは1杯の赤いあつもので彼の長子の特権をゆすり渡し、誓ってその取引を確認した。今少し待てば父の天幕で食物を得られたのに、彼は、自分の一時の欲望を満たすために、神ご自身が、彼の父祖たちに約束された栄光ある相続権を軽々しく手放した。彼は、ただ現在のことだけに興味を持った。彼は、地上のもののために、天のものを、一時の快楽のために未来の幸福を犠牲にしてしまうのであった。「このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた」(創世記25:32、34)。彼は、それを譲渡して一種の解放感を味わった。もう彼には何のじゃまものもなかった。好きかってができた。こうした気ままな楽しみや、誤った自由のために、なんと多くの人々が今もなお、清く汚れのない天の永遠の嗣業をつぐ相続権を売り渡していることであろう。PP 88.5
エサウは、ただ単なる外のかたちとこの世的の魅力にひかれて、ヘテ人の2人の娘を妻にめとった。彼らは偽りの神の礼拝者であった。そして、その偶像礼拝はイサクとリベカを非常に悲しませた。エサウは、選民と異邦人との雑婚を禁じる誓約の条件の1つを犯した。しかし、イサクは、長子の特権を彼に与える決意を変えなかった。リベカの説得も、ヤコブの祝福に対する強い希望も、エサウのその義務に対する無関心も、父の意志をひるがえす力はなかった。PP 89.1
何年かが経過し、イサクは年老いて目がかすみ、死期が近づいたので、長子に祝福を与えることをもはや延ばすべきではないと思った。しかし、リベカとヤコブの反対を知っていたので、彼は厳粛な儀式をひそかに行おうとした。こうしたときには、ふるまいを設ける習慣であったので、老父は、「野に出かけ、わたしのために、しかの肉をとってきて、わたしの好きなおいしい食べ物を作り、……わたしは死ぬ前にあなたを祝福しよう」とエサウに命じた(同27:3、4)。PP 89.2
リベカは、彼が何をしようとするかを読みとった。彼女は、それが神のみこころの啓示とは相反することを確信した。イサクは、神の怒りを招く危険にさらされていた。そして、神が召された地位に弟むすこをつかせまいとしているのであった。彼女は、イサクを説き伏せようとしたがむだだったので、策略を用いる決意をした。PP 89.3
エサウが狩りに出かけると、すぐにリベカは自分の考えの実行にとりかかった。彼女は、ヤコブに事の次第を話し、その祝福がついにしかも決定的にエサウに与えられるのを防止するために、すばやく行動する必要があることを告げた。もしヤコブが母親の指示に従えば、神の約束通りに祝福を受けることができると彼女は保証した。ヤコブは、彼女の考えた計画に、直ちに同意はしなかった。父親を欺くことは大きな苦痛であった。このような罪は、祝福ではなくてのろいをもたらすものだと彼は感じた。しかし、彼は、良心の声にさからって母親の言葉に従い始めた。あからさまのうそを言うつもりではなかったが、ひとたび父の前に出てしまうと引きさがるわけにいかなくなった。彼は、不正手段によって熱望した祝福を手に入れた。PP 89.4
ヤコブとリベカは、目的を達したものの、彼らの詐欺行為によって得たものは、苦悩と悲哀だけであった。神は、ヤコブが長子の特権を得るであろうと言われたのであるから、神が彼らのためにそうしてくださるのを信仰をもって待っておれば、神の言葉は、神ご自身がよいと思われるときに達成されたことであろう。しかし、今日神の子であると公言する多くの人々のように、彼らはこのことを主の手に委ねようとしなかった。リベカは、自分がむすこにまちがったことを勧めたことを非常に後悔した。これが、ヤコブをリベカから引き離す原囚になり、彼女はふたたび彼の顔を見ることがてきなくなった。ヤコブは長子の特権を獲得したその瞬間から、自責の念にかられた。彼は、父と兄と自分の魂と、そして、神に対して罪を犯したのである。彼は、ほんのわずかの時間の間に、一生の悔いを残すことをした。後年、彼自身のむすこたちの罪深い行いが彼の心を苦しめたとき、この光景が彼の前に鮮明によみがえるのであった。PP 89.5
ヤコブが父の天幕を去ると、すぐ、エサウが入ってきた。エサウは長子の特権を売り渡し、その取引を厳粛な宣誓によって確認はしたが、彼は、今弟がなん と言おうと祝福を獲得しようと決意した。長子の霊的特権には物質的特権も含まれていて、家族の指導権と父の富の二人前が与えられることになっていた。彼が高く評価したのは、こうした祝福であった。「父よ、起きてあなたの子のしかの肉を食べ、あなたみずから、わたしを祝福してください」と彼は言った(同27:31)。PP 89.6
驚きと苦悩にふるえながら、目の見えない老父は、自分が欺かれたことを知った。彼が長く楽しみにしてきた希望はくじかれた。そして、彼はエサウの感じる失望を身にしみて味わった。しかし、自分の計画が失敗し、自分がやめようとしていたそのこと自体が実現したというのは、神の摂理であったという確信が彼の心にひらめいた。彼は、天使がリベカに語った言葉を思い出した。そして、罪を犯したとはいうものの、ヤコブが神のご計画を成就するには、最も適任であることをイサクは認めた。彼は、祝福の言葉を語っていたときに霊感を受けた。そして、今、すべての事態を承知の上で、彼が知らずにヤコブに与えた祝福を是認した。「彼を祝福した。ゆえに彼が祝福を得るであろう」(同27:33)。PP 90.1
エサウは、祝福が自分の手元にあると思ったときには、それを軽々しく評価したが、永久に彼から離れ去ったとなると、手に入れたいと思った。彼の衝動的で激しやすい性質がそのままあらわれ、彼の悲しみと怒りは大きかった。彼は、激しく泣き叫んだ。「父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」「あなたはわたしのために祝福を残しておかれませんでしたか」(同27:34、36)。しかし、すでにしてしまった約束は、とりかえすことができなかった。彼が軽率に手放した長子の特権は、ふたたび取りもどすことができなかった。「1杯の食」のため、すなわち、制することをしなかった食欲の瞬間的満足のために、エサウは長子の権利を売った。しかし、彼が自分の愚かなことを悟ったときには時すでにおそく、祝福を取りもどすことはできなかった。「彼は……涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである」(ヘブル12:16、17)。エサウは悔い改めるならば、神の恵みを求める特権がなくなったわけではなかった。しかし、彼は長子の特権を回復する方法を見つけることはできなかった。彼の悲しみは、罪を認めたことからではなかった。彼は、神との和解を願わなかった。彼は罪の結果を悲しんだが、罪そのものを悲しまなかった。PP 90.2
エサウは、神の祝福と要求に無関心であったために、「俗悪な者」と聖書のなかで呼ばれている(同12:16)。彼は、キリストが価を払われた贖罪を軽く評価して、地上の朽ちるもののために、天の相続権を犠牲にする人々を代表している。ただ現在のために生き、将来に対してなんの配慮も準備もない人がおびただしくいる。彼らは、エサウのように、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」と言う(Ⅰコリント15:32)。彼らは、自分たちのしたいほうだいのことをしている。彼らは、自己否定を実行するよりは、最も重大なことがらを犠牲にする。誤った食欲の満足か、あるいは、自己を否定し神を恐れる者だけに約束された天の祝福かのどちらかを捨てなければならないとすれば、食欲の満足のほうが重要で、神と天のほうは文字通り見捨てられてしまう。何と多くの人々、また、クリスチャンと称する人々でさえ、健康を害し、魂の感受性を麻痺させる嗜好物にふけっていることであろう。すべての肉と霊の汚れから身を清めて、神を恐れつつ清潔を達成する義務が示されると、彼らはそれを好まない。彼らは、こうした有害な快楽を楽しみながら、天国に入ることができないことに気づく。そして、永遠の命の道は狭いために、その道を歩くのをやめてしまおうとする。PP 90.3
多くの人々は、肉の欲にふけるために長子の特権を売り払っている。健康は犠牲になり、知能は薄弱になり、天国の希望は失われる。しかも、それらはすべてただ一時の快楽のためであり、人間を弱め、堕落させる放縦のためである。エサウが軽率な取引の愚かさを悟ったときには時すでにおそく、取りもどすことができなかったように、利己的満足のために、天国の相続権を譲渡する者は、神の日に同じ運命にあ うのである。PP 90.4