Loading...
Larger font
Smaller font
Copy
Print
Contents
人類のあけぼの - Contents
  • Results
  • Related
  • Featured
No results found for: "".
  • Weighted Relevancy
  • Content Sequence
  • Relevancy
  • Earliest First
  • Latest First
    Larger font
    Smaller font
    Copy
    Print
    Contents

    第20章 エジプトにおけるヨセフ

    本章は、創世着記39~41章に基づくPP 106.1

    一方、ヨセフは、売られた隊商につれられてエジプトに向かった。隊商がカナンの国境に向かって南下したとき、ヨセフは遠方に父の天幕が張ってある山を見ることができた。彼は愛する父親のさびしさと苦しさを察して激しく泣いた。ふたたびドタンで起こったことを思い出した。彼は兄弟たちの怒りを見、彼らの恐ろしい目つきを身に感じた。泣き叫んで訴える彼に浴びせられた鋭い侮蔑の言葉が彼の耳に鳴っていた。彼は将来のことを考えて恐れおののいた。たいせつに扱われたむすこから、いやしい無力な奴隷になるとはなんという変わりようであろう。ただ1人、友もなく異国に連れられていく彼の運命はどうなることであろうか。ヨセフは、しばし悲哀と恐怖の念にかられて気が狂いそうであった。PP 106.2

    しかし、神の摂理のうちに、このような経験さえも祝福になるのであった。ヨセフはわずかの時間のうちに、数年かかっても得られない教訓を学んだ。彼の父は、強くやさしい愛の人であったが、彼を特別に愛してあまやかしたことは彼のためにならなかった。この愚かな偏愛は兄弟たちを怒らせ、彼らに残虐行為を行わせ、ヨセフを家庭から引き離す原因になった。その影響は、彼自身の性格にもあらわれていた。彼は、これまでに助長された欠点を改める必要があった。彼はうぬぼれの強い苛酷な人間になりつつあった。彼は、父親のやさしい保護になれていたので、前途の困難と、異国人また奴隷としてのきびしい、誰の保護もない生活になんの準備もないことを感じた。PP 106.3

    そのとき彼は、父の神のことを考えた。彼は幼いときから、神を愛し恐れることを教えられていた。彼は父の天幕の中で、ヤコブが逃亡者となって家を脱出したときに見た幻の話をよく聞いたものであった。彼はヤコブに与えられた主の約束とそれが成就した方法、すなわち、父が最も必要に迫られたときに、神の天使が現れて彼を教え、慰め、保護したことを教えられていた。また、彼は、人間のために贖い主を与えられた神の愛について学んでいた。彼は今、こうした尊い教訓をまざまざと思い出した。ヨセフは、先祖の神が自分の神であることを信じた。彼はその時その場所で自分を全く主に捧げ、イスラエルを守るものが、流浪の地で彼と共にいてくださるように祈った。PP 106.4

    彼はどのような環境のもとにあっても、天の王の臣民らしく行動し、神に忠誠を尽くそうと決心して大きな感動をおぼえた。彼は、専心、主に仕えようと思った。彼は勇敢に試練に当面し、忠実に義務を果たそうとした。この1日の経験が、ヨセフの生涯の分岐点になった。その恐ろしい不幸が、あまやかされた少年から、思慮深く、勇敢で沈着なおとなに彼を変えたのである。PP 106.5

    エジプトに到着したヨセフは、パロの侍衛長ポテパルに売られてそこで10年間仕えた。ここで彼は非常に大きな誘惑にあった。彼は、偶像礼拝のただ中にいた。偽りの神の礼拝は、王宮のあらゆる栄華に取り巻かれ、当時最高の文明国の富と教養にささえられていた。しかし、ヨセフは彼の純真さと神への忠誠を保った。彼の周囲には、至るところに罪悪の光景や物音があったが、彼はそれを見ようとも聞こうともしないのであった。彼は、禁じられた問題を考えないのであった。彼はエジプト人の好感を得ようと望んで原則を隠すことをしなかった。もし、彼がそうしたならば、試練に負けたことであろう。しかし彼は、父祖の信仰を恥と思わず、自分が主の礼拝者であることを少しも隠そうとしなかった。PP 106.6

    「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、……その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」(創世記39:2、3)。ポテパルのヨセフに対する信任は日ごとに増し、彼はついにポテパルの家令に任じられ、財産を全部ゆだねられた。「そこで彼は持ち物をみなヨセフの手にゆだねて、自分が食べる物のほかは、何をも顧みなかった」(同39:6)。PP 106.7

    ヨセフに委ねられたものが、すべて驚くべき繁栄をもたらしたことは、直接奇跡が行われたためではなかった。それは彼の勤勉と管理と活動に対して、天からの祝福が加えられたのである。ヨセフは、この成功を神の恵みに帰し、偶像礼拝者の主人もそれがこれまでにない繁栄の秘訣であることを認めた。ところが、目的に向かってたゆまず努力をするのでなければ、成功を収めることはできない。神は、神のしもべが忠実であることによって栄光を受けられた。神を信じる者の純潔と高潔とが、偶像礼拝者とは著しく対照的にあらわされることを神は望まれた。こうして、異教の暗黒のただ中にあって、天の恵みの光が輝かされるのであった。PP 107.1

    ヨセフの温順と忠誠は、侍衛長の心を捕え、ヨセフを奴隷というよりもむすこであると思うようになった。ヨセフは、地位の高い人や学者と接し、科学、語学、社会情勢などの知識を得た。これは、彼が将来エジプトの総理大臣となるのに必要な教育であった。PP 107.2

    ところがヨセフの信仰と誠実とが、火のような試練にあうことになった。主人の妻が神の律法を犯すように彼を誘惑した。彼はこれまで、異教国にみなぎっていた腐敗に染まずにいた。しかし、突然、強く、魅惑的に迫ったこの誘惑に、彼はどうしたらよいであろうか。ヨセフは拒絶すればどういう結果になるかをよく知っていた。応じればそれは秘密にされて、寵愛と報賞を受ける。反対にそれを拒めば、汚名を着せられて投獄され、殺されるかも知れなかった。彼の将来の人生のすべてがこの一瞬の決断にかかっていた。原則が勝利するであろうか。ヨセフはそれでもなお神に忠誠を尽くすであろうか。天使たちは、言葉にあらわせない不安をいだいて、この光景をながめた。PP 107.3

    ヨセフの答えは、宗教的原則の力を示した。彼は、地上の主人の信頼を裏切ろうとしなかった。そして、結果がどうなろうと、彼は天の主人に忠実であろうと願った。多くの人々は、神と聖天使たちの目が見守っているなかで、同胞の前ではしないようなかってなふるまいをする。しかし、ヨセフはまず第一に神のことを考えた。「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」と彼は言った(同39:9)。PP 107.4

    もし、神がわれわれのなすこと、言うことのすべてを見聞きして、その言行動作をそのまま記録しておられること、そして、われわれはいつかそのすべてに当面すべきであることを常に念頭においていれば、罪を犯すことを恐れるであろう。青年たちはどこにいて、何をしようとも神の面前にあることを覚えていよう。われわれの行動は、なに1つ注視の目をのがれることができない。至高者からわれわれの道を隠すことはできない。人間の法律は時としてきびしく思われるが、犯罪が発見されないまま処罰を免れることがよくある。しかし、神の律法はそうではない。どんな夜中の暗黒も、犯罪者を隠すことはできない。自分1人だけであると思っていても、目に見えない目撃者がすべての行為を見ている。心の動機でさえも、神の目にはあきらかである。すべての行為、すべての言葉、すべての思いは、あたかも全世界にその人が1人しかいないかのようにはっきり認められて、天の注目が彼に集中しているのである。PP 107.5

    ヨセフは、廉潔であったために苦しみを受けた。彼を誘惑した者は、道にはずれた罪の汚名をヨセフに着せて恨みを晴らし、彼を獄屋に投げ入れた。もしポテパルが妻の訴えをそのとおりに信じたならば、ヘブルの青年の命はなかったことであろう。しかし、ヨセフの生活態度に常にあらわされていた慎みと正直とは、彼の無実を証明していた。しかし、主人の家の評判を傷つけないために、ヨセフは恥辱と束縛を受けることになった。PP 107.6

    ヨセフは初め獄屋番の苛酷な扱いを受けた。「彼の足は足かせをもって痛められ、彼の首は鉄の首輪にはめられ、彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた」と詩篇記者は言っている(詩篇105:18、19)。しかし、ヨセフの真の品性は、この暗い獄屋の中でも輝いていた。彼は、信仰と忍耐とを堅く守り通した。彼の長年の忠実な奉仕は、ここで不当な報いを受けることになったが、彼は気分を害したり、 信頼を失ったりはしなかった。ヨセフは自己の無実を自覚していたから、心は平静であった。そして、神に自分のことを委ねていた。彼は自分の逆境を悲しまず、かえって他の人々の悲しみを軽減することによって、自分の悲しみを忘れようとした。彼は、獄屋のなかでもなすべき働きを見いだした。神は、この苦難という学校のなかで、さらに偉大なことに役立つ準備を与えようとされたが、ヨセフは必要な訓練を受けることを拒まなかった。彼は獄屋のなかで、圧迫と専制の結果、また、犯罪の結果を目撃し、正義、同情、慈悲の教訓を学んだ。これが、知恵と同情をもって権威を行使するための準備を彼に与えたのである。PP 107.7

    ヨセフは徐々に獄屋番の信任を得るようになり、ついには、すべての囚人の責任を委ねられるようになった。彼の日常生活にあらわれた誠実さ、また、悩み苦しむ人々に対する同情など、彼が獄屋のなかで行ったことがヨセフの将来の繁栄と名誉への道を開いた。われわれが他人に輝かす光は、すべて、また自分たちに反映する。悲しむ者に語るすべての親切で同情に満ちた言葉、しいたげられている者を救うすべての行為、貧しい人々へのすべての贈り物などは、それらが正しい動機から出たものであるならば、必ず祝福となってそれを与えた者にもどってくる。PP 108.1

    エジプト王の給仕役の長と料理役の長とが、罪を犯して獄屋に入れられ、ヨセフの責任下におかれた。ある朝2人が思い悩んでいたので、ヨセフは親切にそのわけをたずねた。すると、2人とも不思議な夢を見て、その意味を知りたく思っているのだと語った。ヨセフは、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」と言った(創世記40:8)。彼らはおのおのその夢を語り、ヨセフが夢の解き明かしをした。それによると、3日のうちに給仕役の長はもとの地位にもどって以前と同じようにパロの手に杯をささげるようになるが、料理役の長のほうは王の命令によって殺されるというのであった。そして、それはヨセフの言ったとおりになった。PP 108.2

    王の給仕役の長は、ヨセフの夢の解き明かしと、獄屋での数多くの親切で慈悲深い行為に深く感謝した。ヨセフはそれに答えて、自分が獄屋に不当につながれていることを涙ながらに訴えて、彼の件を王に取り計らってくれるように頼んだ。「それで、あなたがしあわせになられたら、わたしを覚えていて、どうかわたしに恵みを施し、わたしの事をパロに話して、この家からわたしを出してください。わたしは、実はヘブルびとの地からさらわれてきた者です。またここでもわたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかったのです」とヨセフは言った(同40:14、15)。給仕役の長の夢はそのとおり実現した。しかし、彼は、ふたたび王の愛顧をこうむったとき、恩人ヨセフのことをすっかり忘れてしまった。ヨセフは、それから2年近くも獄屋の中に残された。彼の心にともされた希望はうすれ、多くの苦難の上に、人に忘れ去られる苦しみを心に痛く感じるのであった。PP 108.3

    しかし、神のみ手は獄屋の扉をまさにあけようとしていた。エジプトの王は、一夜のうちに2つの夢を見た。それらは、明らかに同じ事件を指示し、しかも大きな災いを予告しているかのように思われた。王は、その夢の意味を理解することができなかった。しかし夢は王の心を悩ましつづけた。エジプトのすべての魔術師や知者たちも、それを解き明かすことかできなかった。王の困惑と苦悩はますますつのり、王宮全体が恐怖に襲われた。この大騒ぎが起こったときに、給仕役の長は自分が夢を見たときの事情を思い出し、それとともにヨセフの記憶がよみがえってきた。そして、自分の怠慢と忘恩とを考えて、自責の念に苦しめられた。彼はただちに、自分と料理役の長とが見た夢をヘブルの囚人が解き明かしてくれて、彼の言ったとおりになったことを王に話した。PP 108.4

    パロが、白国の魔術師や知者たちを退けて、異国人、しかも奴隷の意見を聞くということは恥辱であった。しかし、彼は、心の苦悩が解決されるのであれば、どんなに身分の卑しい者の言うことでも聞き入れようとしていた。使いの者が、すぐにヨセフのところに送られた。彼は囚人の着物を脱ぎ、ひげをそった。彼の髪の毛が、屈辱と投獄の期間に長くのびていたからである。こうして彼は、王の面前に召し出された。PP 108.5

    「パロはヨセフに言った、『わたしは夢を見たが、これを解き明かす者がない、聞くところによると、あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ』。ヨセフはパロに答えて言った、『いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう』」(同41:15、16)。PP 109.1

    ヨセフのパロへの答えの中に、彼の謙遜と、神への信仰があらわされている。彼は、つつしみ深く、すぐれた知恵が自分にあるなどとは言わなかった。「いいえ、わたしではありません」。神だけがこれらの秘密を解き明かすことができるのである。PP 109.2

    そこでパロは、彼の夢を語った。「夢にわたしは川の岸に立っていた。その川から肥え太った、美しい7頭の雌牛が上がってきて葦を食っていた。その後、弱く、非常に醜い、やせ細った他の7頭の雌牛がまた上がってきた。わたしはエジプト全国で、このような醜いものをまだ見たことがない。ところがそのやせた醜い雌牛が、初めの7頭の肥えた雌牛を食いつくしたが、腹にはいっても、腹にはいった事が知れずやはり初めのように醜かった。ここでわたしは目が覚めた。わたしはまた夢をみた。1本の茎に7つの実った良い穂が出てきた。その後、やせ衰えて、東風に焼けた7つの穂が出てきたが、そのやせた穂が、あの7つの良い穂をのみつくした。わたしは魔術師に話したが、わたしにそのわけを示しうる者はなかった」。PP 109.3

    「ヨセフはパロに言った、『パロの夢は1つです。神がこれからしようとすることをパロに示されたのです』」。これから7年間の豊作が続き、畑も果樹園もこれまでにないほどの大豊作となる。しかしそのあとで7年間の凶作が続き、「後に来るそのききんが、非常に激しいから、その豊作は国のうちで記憶されなくなるでしょう」。夢が2度くりかえされたのは、それがまちがいなく間もなく起こるという証拠であった。彼は続けて言った。「それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国を治めさせなさい。パロはこうして国中に監督を置き、その7年の豊作のうちに、エジプトの国の産物の5分の1を取り、続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい、こうすれば食糧は、エジプトの国に臨む7年のききんに備えて、この国のためにたくわえとなり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」(同41:17~25、31、33~36)。PP 109.4

    解き明かしは、理路整然としていた。また、ヨセフの提案した政策は、堅実、賢明なものであったために、その正確なことは疑う余地がなかった。しかし、この計画の実行を、いったいだれに委ねるべきであろうか。この人選に全国民の存亡がかかっていた。王は困惑した。しばらく、士はこの任命について考慮中であった。王は給仕役の長から、ヨセフが知恵と思慮深さをもって、獄屋の管理に当たったことを聞いていた。ヨセフが行政の手腕においても、優秀な能力の持ち主であることは明らかであった。給仕役の長は、今や、自責の念にかられていたので、恩人ヨセフを心からほめちぎって、かつての忘恩の罪を償おうと努めた。さらに王の調査は、給仕役の長の報告にまちがいのないことを証明した。王国に臨む危険を指示する知恵を持ち、それに当面するのに必要な準備のある者は、国中でヨセフのほかになかった。PP 109.5

    そこで王は、彼が提案した計画を実行に移す唯一の資格ある人物がヨセフであることを確信した。神の力がヨセフと共にあったことは明らかであった。しかもこの危機に臨んで、国家の諸問題に対処し得る資格のある者は、王の役人のなかに1人もいなかった。ヨセフがヘブル人の奴隷であることなどは、彼の明確な知恵と適正な判断力を考慮したとき、たいした問題ではなかった、「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」と王は家来たちに言った(同41:38)。PP 109.6

    任命は決定された。ヨセフにとって驚くべき宣言がなされた。「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。王は、ヨセフの高い地位をあらわす記章を彼に与えようとするのであった。「そしてパロは指 輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、自分の第2の車に彼を乗せ、『ひざまずけ』とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした」(同41:39、40、42、43)。PP 109.7

    「王はその家のつかさとしてその所有をことごとくつかさどらせ、その心のままに君たちを教えさせ、長老たちに知恵を授けさせた」(詩篇105:21、22)。ヨセフは獄屋からエジプト全国のつかさにと高められた。それは、高い名誉ある地位ではあるが困難と危険とが伴うものであった。人間は、高い頂に立てば必ず危険にあうものである。嵐は谷間の低いところに咲く花をそこなうことはないとしても、山頂にある大木を根こぎにすることがある。同様に、平凡な生活のときには廉潔を保って来た人も、世的成功と名誉に伴って誘惑に敗れて深い穴に落ちこむことがある。しかし、ヨセフの品性は、繁栄のときと逆境のときの両方の試練に耐えた。牢獄の中においてあらわされた神への忠誠は、パロの王宮に立ったときにもあらわされた。彼はこのときでさえも異教の地の他国人であり、真の神を礼拝する親族から遠く離れていた。しかし、彼は神のみ手が自分の歩む道を指示したことを心から信じ、神に常に信頼しつつ忠実に与えられた義務を果たしたのである。ヨセフを通して、王やエジプトの高官たちの注目は、真の神に向けられた。彼らは偶像礼拝を続けてはいたものの、主なる神の礼拝者の生活と品性にあらわれた原則を尊敬するようになった。PP 110.1

    ヨセフはどのようにして堅固な品性を持ち、正しく知恵ある者としての記録を残すことができたのであろうか。彼は幼少の時代から、自分の好みよりも義務を第一にしていた。青年時代の廉潔、単純な信頼、高尚な性質が成人したのちの行動となって実を結んだ。純潔で素朴な生活が、肉体的、知的能力の両方が力強く発達するのに有益であった。神のみわざを通して神と交わり、信仰の継承者たちに伝えられた偉大な真理の数々を瞑想することにより、ヨセフの霊的な性質は高められ、気高くされ、他のどんな研究も及ばないほどに、彼の心を広げて強くした。最も低いところから、最も高いところにいたるまで、あらゆる場所にあって忠実に義務を果たしたことはすべての能力を最高の奉仕のために発揮する訓練となった。創造主のみこころに従って生きる者は、最も真実で最も高尚な品性を発達させることができる。「主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである」(ヨブ28:28)。PP 110.2

    人生における小さなことが、品性の発展にどんな影響をおよぼすかを悟っている人は非常に少ない。われわれのなすべきことで、ほんとうに小さいというものは1つとしてない。われわれが日ごとに直面する環境は、われわれの忠実さをためし、さらに大きな信頼を受ける資格がある者かどうかをためすために意図されている。平常の生活での事務や取引において原則を保ち続けることによって、心は快楽や好みよりも義務の要求を第一に考えるように習慣づけられる。このようにして訓練された心は、風にそよぐ葦のように善と悪との間にゆらぐことはない。彼らは誠実と真実の習慣をつけてきたために義務に対して忠実である。彼らは小さなことに忠実であることによって、大きなことにおいても忠実である力を得るのである。PP 110.3

    正しい品性は、オフルの純金よりもさらに大いなる価値がある。それがなければ、だれひとり栄誉ある名声を博すことはできない。しかし、品性は遺伝しない。それは買うこともできない。道徳上の美点も、すぐれた知的素質も決して偶然の結果ではない。最も尊い賜物も、活用しなければなんの価値もない高尚な品性の形成は、一生涯かかる仕事である。それは、熱心でたゆまぬ努力の結果でなければならない。神は機会をお与えになる。成功は、その活用いかんにかかっている。PP 110.4

    Larger font
    Smaller font
    Copy
    Print
    Contents