序
神がアブラハムを召して、偶像教徒の親族に別れて、カナンの国に住むように言われたのは、地上のすべての人々に天の最上の賜物を与えるためであった。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」と神は言われた(創世記12:2)。神が世界にお与えになった真理を幾世紀にわたって擁護し、保存する民族の父となり、約束のメシヤの降臨によって、地のすべての国民を祝福する民族の父となるという召しをアブラハムが受けたことは、彼にとって大きな栄誉であった。PK 401.1
人々は真の神に関する知識をほとんど見失っていた。彼らの心は偶像礼拝によって暗くなっていた。「聖であって、正しく、かつ善なるものである」神の戒めの代わりに、人々は、彼ら自身の残酷で利己的な心のままに行うことができる律法をとりいれようとしていた。しかし、神は彼らをあわれんで、彼らを滅ぼし去られなかった。神は教会によって神を知る機会を彼らにお与えになった。神は、神の民によってあらわされる原則が、人間のうちに神の道徳的なかたちを回復する手段になるようにご計画になった。PK 401.2
神の律法は高められ、神の権威は維持されなければならなかった。そして、イスラエルの家に、この高貴で大いなる任務が与えられたのである。神は、彼らにこの神聖な責任を委ねるために、彼らを世界から分離された。神は彼らを神の律法の保管者とし、彼らによって、人々の間にご自身の知識を保存しようと意図された。こうして、天の光が暗黒に包まれた世界に輝き出て、すべての民に偶像礼拝を捨てて、生きた神に仕えるように訴える声が発せられたのである。PK 401.3
神は「大いなる力と強き手をもって」神の選民をエジプトの国から連れ出された(出エジプト32:11)。「主はそのしもベモーセと、そのお選びになったアロンとをつかわされた。彼らはハムの地で主のしるしと、奇跡とを彼らのうちにおこなった」。「主は紅海をしかって、それをかわかし、彼らを導いて荒野を行くように、淵を通らせられた」(詩篇105:26、27、106:9)。神は彼らを麗しい国、すなわち、神が摂理のうちに敵からの避難所として、彼らのために準備された国へ彼らを導くために、奴隷状態から彼らを救い出されたのである。神は、彼らをご自分のところに連れてきて、彼らを永遠の腕に抱こうとされた。そして彼らは、神の恵みと憐れみにこたえて、神のみ名を高め、神のみ名を地上で栄えあるものにすべきであった。PK 401.4
「主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった」(申命記32:9~12)。こうして、神はイスラエルの民をご自分のところに連れてこられた。それは彼らがいと高き者の陰に宿るためであった。彼らは荒野の放浪生活の危険から奇跡的に救い出されて、ついに、恵まれた国民として約束の国に落ちつくことができたのである。PK 401.5
イザヤはたとえを用いて、イスラエルが召しを受け、世界において主の代表者として立ち、すべての善いわざにおいて豊かに実を結ぶべきことを哀愁に満ちた感動的口調で物語っている。PK 401.6
「わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、1つのぶどう畑をもっていた。彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ」(イザヤ5:1、2)。PK 401.7
神は、選民によって、全人類に祝福を与えようとこ計面にたっだ「万軍の主のぶどう畑はイスラエル の家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である」と預言者は言った(同5:7)。PK 401.8
この民に神のみ言葉が委ねられた。彼らは真理、正義、純潔の永遠の原則である神の律法の戒めによって取り囲まれた。これらの原則に服従することが、彼らにとって保護となるのであった。というのは、それによって、彼らは罪の行為による破滅を免れるからである。そして神は、ぶどう畑のやぐらとして、国の中心に神の聖なる神殿をお置きになった。PK 402.1
キリストが彼らの教師であった。彼が荒野で彼らと共におられたように、彼はなおも彼らの教師であり、指導者であられるのであった。キリストの栄光は幕屋において、また神殿において、贖罪所の上の聖なるシェキーナーの中に宿っていた。キリストは、彼らのために、彼の愛と忍耐の富を絶えずあらわしておられた。PK 402.2
神のみこころは、モーセによって彼らの前に示され、彼らが繁栄する条件が明らかにされた。「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた」とモーセは言った(申命記7:6)。PK 402.3
「きょう、あなたは主をあなたの神とし、かつその道に歩み、定めと、戒めと、おきてとを守り、その声に聞き従うことを明言した。そして、主は先に約束されたように、きょう、あなたを自分の宝の民とされること、また、あなたがそのすべての命令を守るべきことを明言された。主は誉と良き名と栄えとをあなたに与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされるであろう。あなたは主が言われたように、あなたの神、主の聖なる民となるであろう」(申命記26:17~19)。PK 402.4
イスラエルの民は神が彼らにお与えになった地域を全部占領すべきであった。真の神の礼拝と奉仕を拒否した国々は追放されなければならなかった。しかし、イスラエルによって神のこ品性があらわされて、人々が神に引きつけられるようになることが、神のみこごろであった。福音の招待は、全世界に伝えたけれげならなかった。犠牲的礼拝の教えによって、国々の前でキリストが高められるのであった。そして、キリストを仰ぎ見るすべての者は生きろのであった、カナン人ラハブやモアブ人ルツのように、偶像礼拝から真の神の礼拝に立ち返る者は、みな、神の選民に結合するのであった。イスラエル人の数が増加するにつれて、彼らはその国境を広げていき、ついには、彼らの国が全世界を包含するようになるのであった。PK 402.5
しかし、古代のイスラエルは神のみこころを成就しなかった。主は言われた。「わたしはあなたを、まったく良い種のすぐれたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変って、悪い野ふどうの木となったのか」「イスラエルは実を結ぶ茂ったぶどうの木である。」「それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らさない。……主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び」(エレミヤ2:21、ホセア10:1、イザヤ5:3~7)。PK 402.6
主はモーセによって、不忠実の結果は何であるかを神の民に示された。神の契約を守ることを拒否することによって、彼らは自分たち自身を神の生命から絶ち切り、神の祝福が彼らのところに達することができないようにするのであった。彼らがこうした警告に心を留めた時には、ユダヤの国には豊かな祝福が与えられた。そして、彼らを通じて周囲の国々にも与えられた。しかし、その歴史において、彼らは神を忘れ、神の代表者としての彼らの大いなる特権を見失った時のほうが多かった。彼らは神が彼らに要求された奉仕をすることをせず同胞に対しては、宗教的指導と清い模範を示すことをしなかったのである。彼ら は管理者の責任を負わせられていたぶどう畑の実を、自分たちの用に供しようとした。彼らの貧欲と強欲は、異邦人からさえ軽べつされた。こうしたことを理由にして、異教徒の世界は、神のこ品性と神の国の律法とを誤って解釈するに至ったのである。PK 402.7
神は父親の心をもって、神の民を長く忍ばれた。神は彼らに憐れみを与え、あるいは憐れみを取り去ることにより、彼らに訴えられた。神は忍耐強く彼らの罪を示し、彼らがそれを認めるに至ることを辛抱強くお待ちになった。神のご要求を農夫たちに説得するために、預言者や使者たちがつかわされた。しかし、こうした先見の明と、霊的能力を持った人々は、歓迎されるどころか、敵とみなされた。農夫たちは彼らを迫害して殺した。神はまた、ほかの使者たちをお送りになった。しかし彼らも、はじめの人々と同様の取り扱いを受けた。農夫たちはさらにかたくなに憎しみを示すに過ぎなかった。PK 403.1
捕囚期間において、神の恵みが取り除かれたことは、多くの人々に悔い改めを促した。しかし、ユダヤ人は約束の地に帰還後、先祖たちの誤りをくり返し、周囲の国々との政治的な争いにまき込まれた。神は、広く行きわたっていた害悪を正すために、預言者たちをお送りになったが、彼らも初期の使者たちに向けられたのと同様の疑念と軽べつを受けた。こうして、ぶどう畑の管理者たちは、過ぎ行く世紀とともに彼らの罪を増し加えていった。PK 403.2
天の農夫であられる神によってパレスチナの丘に植えられたよいぶどうの木は、イスラエルの人々に軽べつされ、ついには、ぶどう畑の壁の向こう側に投げ出され、傷つけられ、足の下にふみにじられた。彼らは、それを永遠に絶滅させようと思ったのである。農夫であられる神は、ぶどうの木を取り去って、彼らの見えないところに隠された。神はもう1度、それを壁の向こう側に植えて、その幹をもはや見ることができないようになさった。枝は、壁から垂れ下がっているから、接ぎ木は枝に接ぐことはできるが、幹そのものは、人間の力がそれに及んだり、害を加えたりすることができない所に置かれたのである。PK 403.3
人類のための神の永遠のご計画を明らかにした預言者たちが語った勧告と警告の言葉は、神のぶどう畑の管理者である今日の地上の教会にとって、特別に価値のあるものである。預言者たちの教えの中に、失われた人類に対する神の愛と、彼らの救いに対する神のご計画が明らかにあらわされている。イスラエルの召しと彼らの成功と失敗、彼らが神の恵みに回復されながらも、ぶどう畑の主を拒否した物語、そして、麗しい残りの民によって、各時代にわたった計画が実現され、彼らにすべての契約が成就されるという物語こそ、過去幾世紀にわたって神の使者たちが、神の教会に伝えた主題であった。そして、今日、神の教会、すなわち、忠実な農夫たちとして神のぶどう畑の働きに従事している者に対する神のみ言葉は、昔の預言者が語った言葉以外の何物でもない。PK 403.4
「麗しきぶどう畑よ、このことを歌え。主なるわたしはこれを守り、常に水をそそぎ、夜も昼も守って、そこなう者のないようにする」(イザヤ27:2、3)。PK 403.5
イスラエルは、神を待ち望んでいよう。ぶどう畑の主は、今なお、あらゆる国々や国民の中から彼が長く待っておられる尊い実を集めようとしておられる。間もなく彼は、ご自分の民のところに来られる。そしてその喜ばしい日に、イスラエルの家のための彼の永遠のみこころは成就されるのである。「後になれば、ヤコブは根をはり、イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす」(同27:6)。PK 403.6