第48章 権力をこえる力
- 序
- 第1章 ソロモン王の選択
- 第2章 エルサレム神殿の建設
- 第3章 繁栄の落とし穴
- 第4章 権力者が倒れるとき
- 第5章 ソロモン王の改心
- 第6章 王国の分裂
- 第7章 悲劇の王ヤラベアム
- 第8章 急速にひろがった背信
- 第9章 預言者エリヤの出現
- 第10章 罪を責める声
- 第11章 カルメル山の対決
- 第12章 砂漠へ逃れる預言者
- 第13章 失敗から立ちあがる
- 第14章 預言者エリヤの力
- 第15章 妥協するヨシャパテ王
- 第16章 アハブ家の没落
- 第17章 預言者エリシャの召し
- 第18章 悪水を良水にかえる
- 第19章 平和をつくり出す人
- 第20章 大国シリヤからの訪問者
- 第21章 預言者工リシャの貢献
- 第22章 アッスリヤの首都ニネベ
- 第23章 大国アッスリヤの支配
- 第24章 破滅を定めるもの
- 第25章 預言者イザヤの召し
- 第26章 「あなたがたの神を見よ」
- 第27章 大国に援助を求めたアハズ王
- 第28章 熱心な改革者ヒゼキヤ王
- 第29章 虚栄のつけ
- 第30章 大国アッスリヤからの解放
- 第31章 諸国民の希望
- 第32章 暗黒時代をもたらしたマナセ王と改革の星ヨシヤ王
- 第33章 律法の書の発見
- 第34章 立ちあがった預言者エレミヤ
- 第35章 破滅が近い
- 第36章 ユダ王国の最後の王
- 第37章 バビロン捕囚
- 第38章 暗黒を貫く光
- 第39章 バビロン王宮の4青年
- 第40章 ネブカデネザル王の夢
- 第41章 火の燃える炉からの救い
- 第42章 真の偉大さとは何か
- 第43章 目に見えない守護者
- 第44章主義に固く立つ
- 第45章 バビロン捕囚から帰る
- 第46章敵対者に直面して
- 第47章大祭司ヨシュアと天使
- 第48章 権力をこえる力
- 第49章 王妃エステルの決心
- 第50章 学者エズラに導かれた改革
- 第51章 精神の大覚醒
- 第52章 総督ネヘミヤの活躍
- 第53章 市街の建てなおし
- 第54章 搾取に対する譴責
- 第55章 隣国の陰謀
- 第56章 律法の公布
- 第57章 改革が始まる
- 第58章 救い主を待望する人々
- 第59章 理想のイスラエル
- 第60章 栄光にみちた国が来る
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第48章 権力をこえる力
ゼカリヤはヨシュアとみ使いの幻を受けた直後に、ゼルバベルの働きに関する言葉が与えられた。ゼカリヤは次のように言っている。「わたしと語った天の使がまた来て、わたしを呼びさました。わたしは眠りから呼びさまされた人のようであった。彼がわたしに向かって『何を見るか』と言ったので、わたしは言った、『わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が1つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に7つのともしび皿があり、そのともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの7本ずつの管があります、また燭台のかたわらに、オリブの木が2本あって、1本は油をいれる器の右にあり、1本はその左にあります』。わたしはまたわたしと語る天の使に言った、『わが主よ、これらはなんですか』。……すると彼はわたしに言った、『ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず能力によらず、わたしの霊によるのである』」(ゼカリヤ4:1~6)。PK 607.2
「わたしはまた彼に尋ねて、『燭台の左右にある、この2本のオリブの木はなんですか』と言い、重ねてまた『この2本の金の管によって、油をそれから注ぎ出すオリブの2枝はなんですか』と言」った。「すると彼は言った、『これらはふたりの油そそがれた者で、全地の主のかたわらに立つ者です』」(同4:11~14)。PK 607.3
この幻の中では、2本のオリブの木が神の前に立っていて、金の管によって、燭台の器に油を注ぎ出していることがあらわされていた。これから聖所の燭台に油が注がれて、あかりをあかあかとともしつづけるのであった。そのように、神の前に立つ油注がれた者から、あふれるばかりの神の光と愛と力が、神の民に分け与えられる。そしてこれは、彼らが他の人々に光と喜びと慰めを分け与えるためである。こうして豊かに恵まれた者は、神の愛の宝を豊かに他の人々に、与えなければならないのである。PK 607.4
ゼルバベルは主の家の再建に当たって、様々の困難をもものともせずに働いたのであった。敵は最初から、「ユダの民の手を弱らせて、その建築を妨げ」、「腕力と権力とをもって彼らをやめさせた」(エズラ4:4、23)。しかし主は建設者たちのために手を下し、今や彼の預言者によってゼルバベルに語り、「大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。彼は『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろう」と言われた(ゼカリヤ4:7)。PK 607.5
神の民の歴史を通じて、一見越えることができな いと思われた大きな困難の山が、天の神のみこころを実行しようとした者の前に、立ちはだかったのである。このような障害物は、信仰の試練として主がお許しになったのである。われわれが四方から取り囲まれる時こそ、他のどんな時にもまさって、神と聖霊の力に信頼すべき時である。生きた信仰を働かせるということは、霊的力が増し、揺るがぬ信頼が発達することを意味する。このようにして、人は勝ち進む強力な者となる。信仰をもって祈り求める時に、サタンがキリスト者の道に置いた障害物は消え去ってしまう。なぜなら、天の力が彼を助けるために送られるからである。「あなたがたにできない事は、何もないであろう」(マタイ17:20)。PK 607.6
世の中では、虚飾と誇示をもって事を始めるのがならわしである。しかし神は、小さい事の日を真理と義の輝かしい勝利の出発点となさるのである。神は時々彼らに、失望と一見失敗と思われるものを与えて、神の働き人を訓練なさるのである。彼らが困難を征服することを学ぶのが、神のみこころである。PK 608.1
しばしば人々は、難局や障害物に当面した時に、よろめくように誘惑を受ける。しかし、もし彼らが最初に持った確信を、しっかりと終わりまで持ち続けるならば、神は彼らの道を開いてくださるのである。成功は困難と戦う人々に与えられる。ゼルバベルの勇敢な精神と揺るがぬ信仰の前に、大きな困難の山は平地となるのである。そして、基礎をすえた、「彼の手はこれを完成する」。「彼は、『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろう」(ゼカリヤ4:9、7)。PK 608.2
人間の能力や人間の権力が神の教会を建てたのではなかった。また、それらが教会を破壊することもできないのである。人間の力という岩の上ではなくて、永遠の岩であられるキリスト・イエスの上に教会は建てられた。そして「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)。神の臨在が神の働きを安定させるのである。「もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない」という言葉が、われわれに与えられている(詩篇146:3)。「穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ30:15)。正義という永遠の原則に基づいた、神の輝かしい働きは無に帰することはない。それは力から力に進む。「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず能力によらず、わたしの霊によろのである」(ゼカリヤ4:6)。PK 608.3
「ゼルバベルの手はこの宮の礎をすえた。彼の手はこれを完成する」という約束は、文字通りに成就した(同4:9)。「そしてユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイおよびイドの子ゼカリヤの預言によって建て、これをなし遂げた。彼らはイスラエルの神の命令により、またクロス、ダリヨスおよびペルシャ王アルタシャスタの命によって、これを建て終った。この宮はダリヨス王の治世の6年アダルの月(12月)の3日に完成した」(エズラ6:14、15)。PK 608.4
その後しばらくして、再建された神殿が奉献された。「そこでイスラエルの人々、祭司たち、レビびとおよびその他の捕囚から帰った人々は、喜んで神のこの宮の奉献式を行った。」そして、彼らは「正月の14日に過越の祭を行った」(同6:16、19)。PK 608.5
第二の神殿は、その壮麗さにおいて最初の神殿よりは劣っていた。また第一の神殿に与えられていた、目に見える神の臨在のしるしによって、清められてはいなかった。その奉献を記念する超自然的な力のあらわれはなかった。新たに建てられた聖所にあふれる栄光の雲は見えなかった。天から火が下って、祭壇の上の犠牲を焼きつくさなかった。至聖所のケルビムの間には、もはやシェキーナーは宿らなかった。契約の箱、贖罪所、あかしの板などはもうなかつた。主のみこころを伺う祭司に天からのしるしがあらわれて、それを知らせることもなかったのである。PK 608.6
しかしこれは、主が預言者ハガイによって次のよりに宣言された建物であった。「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい」。「わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる」(ハガイ2:9、7)。(万国の願うところのもの〔イエス〕来らん)(文語訳参照)。学者たちは幾世紀にわたって、ハ ガイに与えられた神の約束が、どのように成就されたかを示そうと努力してきたのである。しかし、万国民の願うところのものであられるナザレのイエスが来られて、自らの臨在によって神殿をお清めになったことに、断固として特別の意義を認めないものが多くあった。彼らは誇りと不信によって、心が暗くされ、預言者の言葉の真の意味を悟らなかったのである。PK 608.7
第二の神殿は、主の栄光の雲によってではなくて、「満ちみちているいっさいの神の徳が」宿っているかた、すなわち、「肉において現れ」た神ご自身の臨在によって光栄に浴したのである(コロサイ2:9、Ⅰテモテ3:16)。キリストの地上の伝道生涯において、彼ご自身が来られて光栄に浴したということだけが、第二の神殿の、第一の神殿よりすぐれたところであった。「万国の願うところのもの」であられるイエスが、まことに彼の神殿に来られたのである。ナザレの人イエスが、その聖域で教え、いやされたのである。PK 609.1