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患難から栄光へ - Contents
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    第49章 パウロの最後の手紙

    本章はテモテヘの第2の手紙に基づくAA 1545.5

    ローマ皇帝の法廷から、パウロは自分の独房に帰ってきた。彼は自分がほんの一時的な執行猶予を得たことを悟った。彼は、敵が、彼の死を達成するまでは休まらないことを知っていた。しかし彼はまた、しばらくのあいだ真理が勝利したことも知っていた。彼に聞き入っていた大勢の群衆に、十字架にかけられ、よみがえられた救い主を宣べ伝えたことは、それだけで勝利であった。その日、1つの働きが始まったのである。その働きは、発展し、強くなり、ネロやその他のいかなるキリストの敵がそのじゃまをしたり、破壊しようとしたりしても、できないのであった。AA 1545.6

    くる日もくる日も、陰うつな独房に座り、ネロの一言で、あるいは1度うなずくだけで、自分の命がささげられることを知って、パウロはテモテのことを思い、彼を呼びにやろうと決めた。テモテにはエペソの教会の世話がゆだねられていた。それでパウロがローマへ最後にやって来たときにも、テモテは後に残されていたのであった。パウロとテモテは並々ならぬ深い、強 い愛情で結ばれていた。テモテは改心して以来、パウロとともに骨折りと苦難を分かち合い、このふたりの間の友情はますます強く、深く、きよいものとなり、テモテは、愛し尊敬する父親に対する息子のように、年老い、やつれた使徒に対した。孤独と寂しさの中で、パウロがテモテに会いたいと願ったのも、当然であった。AA 1545.7

    最も好都合な事情のもとでも、テモテが小アジアからローマに着くには数か月かかったにちがいない。パウロは自分の命が不確実なことを知っていたので、テモテの会いに来るのが遅すぎることにならないかと恐れた。彼には、大きな責任がゆだねられているこの青年に与えたい、大切な勧告と教えがあった。そこで、テモテには遅れず来るよう勧める一方、パウロは、言わずに終わることのないように、死に臨んでのあかしを書いた。パウロの魂は、福音による彼の息子と、息子にゆだねられている教会への、愛情に満ちた心づかいでいっぱいで、彼はテモテに、その聖なる任務を忠実に果たすことの重要性をしっかり教えたいと思った。AA 1546.1

    パウロはあいさつの言葉で手紙を始めた。「父なる神とわたしたちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とが、あなたにあるように。わたしは、日夜、祈の中で、絶えずあなたのことを思い出しては、きよい良心をもって先祖以来つかえている神に感謝している」。AA 1546.2

    それから使徒はテモテに、堅固な信仰を持つようにと勧めた。「こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい」。パウロはテモテに、彼自身が、「福音によっていのちと不死とを明らかに示された」方の力を宣べ伝えるために、「聖なる招きをもって」召されたということを、覚えていてほしいと述べ、「わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になった。そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである」と言明した。AA 1546.3

    パウロは長い奉仕の期間をとおして、救い主への忠誠がぐらついたことは決してなかった。どこにいようとも——むずかしい顔をしたパリサイ人や、あるいはローマの役人たちの前であろうと、ルステラでの怒り狂う群衆や、マケドニヤの獄屋での囚人たちの前であろうと、難破船の上であわてふためいている水夫たちを説得している時であろうと、ネロの前にただひとり立って弁明している時であろうと——パウロは自分の擁護する主義を決して恥としなかった。パウロのクリスチャン生活の一大目的は、かつてはその名を軽蔑していた方に仕えることであった。どんな反対や迫害も、彼をこの目的から引き離すことはできなかった。努力によって強められ、犠牲によって純粋にされた信仰は、彼を支え、そして強めた。AA 1546.4

    「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい」。AA 1546.5

    神の本当の牧師は、困難や責任を回避しない。彼は、神の力を心から求める人々を決して失望させることのない源であられる神から、誘惑に立ち向かってそれに勝利できるように、また、神から与えられた義務を果たすことができるように、力を引き出すのである。彼の受ける恵みの力は、神とみ子を知る彼の力量をひろげる。彼は主に受け入れられる奉仕をしたいと切望して出て行く。そしてクリスチャンの道を進むにつれて、彼は「キリスト・イエスにある恵みによって、強くな」るのである。この恵みによって彼は、 聞いた事を忠実にあかしすることができるようになる。彼は神から受けた知識を軽蔑したり、おろそかにしたりしないで、この知識を忠実な人々にゆだね、次には彼らが他の人々へ伝えるのである。AA 1546.6

    このテモテへのパウロの最後の手紙の中で、パウロはこの若い働き人の前に高い理想をかかげ、キリストに仕える者として彼にゆだねられている義務を指し示した。「あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい」と使徒は書いた。「あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ」て下さるであろう。AA 1547.1

    使徒は、教会に入りこもうとしている偽教師について、テモテに警告した。「このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者……信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい」。AA 1547.2

    彼はさらに続けた。「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、……救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」。神は、この世にある悪との戦いに勝つための手段を、豊かに与えておいでになる。聖書は、われわれが戦いのために身支度をすることができる兵器庫である。われわれは真理の帯を腰にしめなければならない。正義の胸当をつけなければならない。信仰のたてを手に持ち、救いのかぶとを深くかぶり、み霊の剣、すなわち神のことばでもって、罪の障害やもつれを切り開いて行かなければならない。AA 1547.3

    パウロは教会の前には厳しい危難の時があることを知っていた。彼は、教会の責任をゆだねられている人々が、忠実に熱心に仕事をしなければならないことを知っていたので、テモテにこう書き送った。「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」。AA 1547.4

    テモテのような熱心で忠実な者に、改めてこのような厳粛な訓告がなされていることは、福音伝道の働きの重要性と責任の重さを、はっきり証明するものである。パウロはテモテを神の法廷に呼び出し、人の言い習わしや習慣ではなくみことばを宣べ伝えるように、大会衆の前でも、個人的な集まりでも、道ばたでも炉辺でも、友人にも敵にも、安全な時も、困難や危険、非難や損害にさらされている時も、機会があるときにはいつでも神のためにあかしをたてるように、と命じる。AA 1547.5

    テモテの性質が穏やかで従順なために、彼の働きの大事な部分を避けるのではないかと案じて、パウロは彼に、罪は忠実に譴責するように、また、ひどい悪事を行っている者は厳しく譴責するようにと、熱心に説いた。しかもテモテはこれを、「あくまでも寛容な心でよく教え」なければならなかった。彼はキリストの忍耐と愛をあらわし、みことばの真理によって自分の譴責を説明し主張するのであった。AA 1547.6

    罪を憎んで譴責しながら、同時に罪人をあわれみ、やさしさを示すということは、むずかしいことである。われわれが、心と生活を聖潔の域に到達させようと 熱心に努力すればするほど、罪に対するわれわれの知覚は鋭敏になり、正しいものからの逸脱を認めぬ気持ちがいよいよ強まってくる。われわれは、不正な行いをする者に過度に厳しくならぬよう注意しなければならないが、しかしまた、罪のはなはだしい罪深さというものを見落とすことのないよう、気をつけなければならない。過ちを犯している者に、キリストのような忍耐と愛を示すことは必要であるが、過ちに寛大すぎると、譴責を受けるほどでもないと彼に思い込ませてしまい、その譴責を不必要なもの、不当なものとして拒むようにさせてしまう危険がある。AA 1547.7

    福音を伝える牧師たちは時々、誤りに陥った者たちに対して寛容なあまり、罪を黙認し、みずから罪に関係することさえして、大きな害を及ぼすことがある。こうして彼らは、神がとがめておられることをゆるしたり、弁解したりするようになり、しばらくすると、神が譴責するようにと命じておられるその人々をほめるまでに盲目となってしまう。神がとがめておられる人々に、罪深い寛大さを示すことによって、自分の霊的な知覚力を鈍らせている者は、やがて、神が是認される人々に対して厳しい、苛酷な態度をとることによって、さらに大きな罪を犯してしまうであろう。AA 1548.1

    クリスチャンだと自称し、また他人を教える資格があると自負している多くの者たちが、人間の知恵を誇り、聖霊の感化を軽蔑し、神のみことばの真理をきらうために、神の要求から離れて行くであろう。パウロはテモテに言った。「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう」。AA 1548.2

    使徒パウロはここで、公然と不信仰な人たちのことを言っているのではなく、自分の好みを頼りにして、そのために自我の奴隷になっている、口先だけのクリスチャンのことを言っているのである。このような人たちは、自分たちの罪を責めたり、快楽を愛する生活を非難したりすることのない教えだけに、喜んで耳を傾ける。彼らはキリストの忠実なしもべたちのはっきりした言葉に腹をたて、自分たちをほめたりへつらったりする教師たちを好む。また、牧師をもって任じている者たちの中には、神のみことばの代わりに人々の意見を説教する者たちがいる。彼らは義務に不忠実で、彼らに霊的指導を求める人々を惑わしているのである。AA 1548.3

    神は聖なる律法の教えの中で、完全な生活の現則を与えておられる。そして神は、この律法は世の終わりまで、一点一画も変えられることなく人間に要求されるものであると宣言された。キリストは律法を大いなるものとし、かつ光栄あるものとするために来られた。律法が神への愛と人への愛という広い土台に基づいていること、そして、人間の義務はすべて律法の教えに従うということに尽きることを、キリストはお教えになった。キリストはご自身の生活において、神の律法に従う模範をお与えになった。山上の垂訓の中で主は、神の律法の要求が、いかに外面的な行為を越えて広く及ぶものであり、心の中の思いや意図を含むものであるかをお示しになった。AA 1548.4

    律法は、これに従えば、人々を導き、「不信言心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深く……生活」するようにさせる(テトス2:12)。しかしすべての正義の敵は、この世を捕虜にし、人々を律法に従わないようにさせてきた。パウロが予見したように、多くの者が神のみことばの明瞭で徹底した真理に背を向けて、自分たちの好む作り話をしてくれる教師たちを選んできた。牧師や一般信徒を含めて、多くの者たちが神の十戒をふみにじっている。こうして世界の創造主が侮辱され、そしてサタンは自分の策略の成功を勝ち誇って笑うのである。AA 1548.5

    神の律法に対する軽蔑がひどくなるにつれて、宗教に対する嫌悪が増し、人はますます高慢になり、快楽を愛し、両親にそむき、放縦になる。そして、思慮深い人々はいたるところで、こうした驚くべき悪をどうしたら正すことができるだろうかと、心配してたずねている。答えは、テモテに与えたパウロの勧告の中に見いだされる。「御言を宣べ伝えなさい」。聖書には、唯一の安全な行動原理が示されている。聖書 は神のみこころの写しであり、神の知恵の表現である。聖書は人生の大問題を人間に理解させる。そして聖書は、その教えに耳を傾けるすべての人にとって、誤りのない指導書となり、見当違いの努力を払って人生をむだにすることのないようにさせるのである。AA 1548.6

    神はすでにみこころをお知らせになった。だから、人が、すでに神のみ口から出たことに疑問を持つのは愚かなことである。無限の知恵を持つお方が語られたあとに、人間が解決しなければならないような疑わしい問題や、調整しなければならないあいまいな可能性など、あるはずがない。人間に求められているのは、すでにあらわされている神のみこころに、率直に熱心に協力することだけである。従順は良心のみならず、理性の最高の命令でもある。AA 1549.1

    パウロはさらに勧めた、「あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい」。パウロは自分の行程を走り終えようとしていた。そこで彼は、テモテが自分に代わってくれて、敵がさまざまな方法で、教会員を単純な福音からそれさせようとして用いる作り話や異説から、教会を守ってくれるようにと願った。彼は、テモテが、神のためになすべき働きに自分のすべてをささげるにあたって妨げとなる、この世的な仕事やかかわりあいから、いっさい身をひくようにと忠告した。そして、信仰のゆえに出会わねばならない反対、非難、迫害に、喜んで耐えるように、また、キリストが犠牲となって亡くなられたその人々の、益となることを行うために、できる範囲であらゆる手段を尽くすことによって、自分の務めを十分に吟味するようにと、パウロは勧めた。AA 1549.2

    パウロの生涯は、彼の説いた真理を例証するものであった。そしてここに彼の力があった。彼の心は、深い不動の責任感で満ちていた。そして彼は、正義と憐れみと真理の源泉であられる神と密接に交わりながら働いた。彼はキリストの十字架を、成功の唯一の保証として、しっかりつかんでいた。救い主への愛は、キリストへの奉仕においてパウロが、この世の敵意や、敵たちの反対をも押しのけて進んだ時に、自己との戦いや悪との苦闘の中で、彼を絶えず支えた動因であった。AA 1549.3

    この危難の時代に教会に必要なものは、パウロのように、自分自身を有用なものに教育し、神の事柄に深い体験を持ち、まじめで熱意に満たされている働き人の軍隊である。きよめられた、献身的な人々が必要とされている。それは、試練や責任を避けない人々であり、勇敢で真実な人々であり、「栄光の望み」であられるキリストが心の中に形づくられている人々であり、きよい火に触れたくちびるで「御言を宣べ伝え」る人々である。このような働き人が欠乏しているために神のみわざは衰退し、致命的な誤りが猛毒のように、道徳を腐敗させ、人類の多くの希望を挫折させている。AA 1549.4

    忠実な、労苦にやつれた指導者たちが、真理のために命をささげている時、だれが進み出て、彼らの代わりをつとめるのであろうか。青年たちは父たちの手から、その聖なる責任を受け取るであろうか。彼らは、信仰者の死によって欠員となる場所を、補充する用意をしているだろうか。若い者たちをそそのかす、利己主義や野心への誘惑のただ中にあって、パウロの教訓はかえりみられ、義務への召しは聞かれるであろうか。AA 1549.5

    パウロは手紙を、それぞれの人への個人的な伝言で結び、できれば冬になる前に、急いで来てくれるようにと、もう1度テモテに頼んだ。ある友人たちには見捨てられ、またある友人たちは去らざるを得なかった。そのための寂しさを彼は語った。そして、エペソの教会がテモテの働きを必要としていることを気づかって、テモテがためらうことのないように、すでにその補いとしてテキコをつかわしたと、パウロは述べた。AA 1549.6

    ネロの前での裁判の様子や、兄弟たちが自分を捨てて行ったことや、契約を守られる神の恵みの支えについて語ってのち、パウロは、羊飼いたちが打ちのめされても、なおご自身の羊の群れの世話をなさる大牧者の保護のもとに、愛するテモテをゆだねることで手紙を終えた。AA 1549.7

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