ローマ・カトリックの十戒
『カトリック要理』よりGC 1811.12
Ⅰ
われはなんじの主なり、われのほか何者をも神となすべからず。GC 1811.13
Ⅱ
なんじ、神の名をみだりに呼ぶなかれ。GC 1811.14
Ⅲ
なんじ、安息日を聖とすべきことを覚ゆべし。GC 1811.15
Ⅳ
なんじ、父母を敬うべし。GC 1811.16
Ⅴ
なんじ、殺すなかれ。GC 1811.17
Ⅵ
なんじ、かんいんするなかれ。GC 1811.18
Ⅶ
なんじ、盗むなかれ。GC 1811.19
Ⅷ
なんじ、偽証するなかれ。GC 1811.20
Ⅸ
なんじ、人の妻を望むなかれ。GC 1811.21
Ⅹ
なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。GC 1811.22
預言は、獣とその像とを拝することについて警告したあとで、「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒……がある」と宣言する。神の戒めを守る人々が、獣とその像とを拝み、その刻印を受ける者たちと、このように対照されていることから見ると、神を拝む者と獣を拝む者との間の区別は、一方は神の戒めを守り、他方はそれを犯すことにあるとわかる。GC 1812.1
獣の特徴、したがって、その像の特徴は、神の戒めを破ることである。ダニエルは、小さい角、すなわち法王制について、次のように言っている。「彼はまた時と律法とを変えようと望む」(ダニエル7:25)。そして、パウロは、この同じ権力を、神よりも自分を高める「不法の者」と呼んだ。1つの預言は他の預言を補足する。法王制は、神の律法を変更することによってのみ、自らを神よりも高くすることができたのである。だれであっても、こうして変更された律法を、それと知りつつ守るならば、律法を変更した権力に最高の栄誉を帰していることになる。法王制の律法に従うこのような行為は、神のかわりに法王に忠誠を誓うしるしとなるのである。GC 1812.2
法王制は、神の律法を変更しようとした。偶像礼拝を禁じる第2条を律法から除去し、第4条は、7日目のかわりに第1日を安息日として守ることを公認するように変更された。しかし、法王側の人々は、第2条を除去したことを、それは第1条に含まれているから不必要であり、われわれは神がわれわれに理解させたいと望んでおられるとおりに律法を与えたのであると主張する。これは、預言者が預言したところの変更ではない。預言されたその変更は、計画的で故意の変更である。すなわち「彼はまた時と律法とを変えようと望む。」第4条の変更こそ、まさしくこの預言の成就である。これに関して主張できる権威は、ただ教会の権威のみである。ここにおいて、法王権は、公然と自らを神よりも高めているのである。GC 1812.3