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各時代の大争闘 - Contents
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    日曜日遵守論

    安息日の義務が示された時、多くの者は、世俗の立場から考えて、次のように言うのであった。「われわれは、これまで常に日曜日を守ってきた。われわれの先祖たちも守った。そして、多くの善良で敬虔な人々が、日曜日を守って幸福に死んだ。もし彼らが正しかったのであれば、われわれも正しい。この新しい安息日を守れば、世との調和から外れ、彼らに感化を及ぼすことができない。7日目を守る小さな団体が、日曜日を守る全世界に対抗して、いったい何を成し遂げようというのか?」ユダヤ人が、キリストを拒んだことを正当化しようとしたのは、同様の議論によってであった。われわれの先祖たちは、犠牲をささげることによって神に受け入れられてきたのだから、その子孫であるわれわれも、同様の方法で救いを受けることのできないはずがあろうか、というのであった。同様に、ルターの時代において、法王教徒たちは、真のキリスト者たちはカトリックの信仰をもって死んだ、それゆえにこの信仰は、救いを受けるのに十分である、と論じた。しかし、このような論理は、宗教的信仰や行為のあらゆる発達を、はなはだしく阻害するものである。GC 1816.2

    日曜日遵守は確立された教義で、幾世紀にもわたって広く行われてきた教会の慣習である、と論じる者が多い。このような議論に対し、安息日とその遵守は、もっと古くもっと広範囲のもの、創世以来のものであり、神と天使たちとの認めるものであることが示された。地の基がすえられ、明けの星が相共に歌い、神の子たちがみな喜び呼ばわったその時、安息日の基礎が置かれたのである(創世記2:1~3、ヨブ38:6、7参照)。この制度がわれわれの崇敬を要求するのは当然である。それは、人間の権威によって命じられたものでも、人間の伝承によるものでもない。それは、日の老いたる者によって制定され、その永遠の言葉によって命じられたものである。GC 1816.3

    安息日改革の問題に人々の注意が喚起されると、一般の牧師たちは、神の言葉を曲げて、人々の探究心を巧みにしずめるような解釈をほどこした。そして、自分で聖書を探究しない人々は、自分たちの欲求に合った結論を受け入れて満足した。GC 1816.4

    議論、詭弁、教父たちの伝承、また教会の権威などによって、真理を覆そうとした者が多くいた。真理の擁護者たちは、自分たちの聖書を頼りにして、第4条の戒めの正当性を擁護した。真理の言葉だけで武装した謙遜な人々が、学者たちの攻撃に対抗した。学者たちは、自分たちの巧みな詭弁が、難解な学問よりも聖書によく通じた人々の、単純で率直な論理に対してなんの力もないのを知って、驚き怒った。GC 1816.5

    多くの者は、自分たちに有利な聖書の証言がないために、同じ論法がキリストと彼の使徒たちに反対して用いられたことを忘れて、頑固に次のように主張した。「われわれの偉大な人々がこの安息日問題を理解しないのはどういうわけか。あなたがたのように信じている者はほんのわずかである。あなたがたが正しくて、世の中の学者たちがみなまちがっている、などということはあり得ない。」GC 1816.6

    このような議論に反論するには、ただ聖書の教えと、各時代において主がご自分の民を扱われた歴史とを引用すればよかった。神は、神の声を聞いて従う者、 必要ならば俗受けのしない真理を語る者、広く行われている罪を譴責することを恐れない者を用いて働かれる。神が、学者や高い地位にある人々を選んで改革運動の指導者になさらないのは、彼らが、自分たちの信条、理論、神学体系などに頼って、神に教えられることの必要を感じないからである。知恵の根源である神と個人的につながっている者だけが、聖書を理解し説明することができる。学校教育をわずかしか受けていない人々が、真理を宣言するために召されることがあるが、それは彼らが無学であるためではなくて、自分に頼らずに神から教えを受けるからである。彼らは、キリストの学校で学び、その謙遜と服従が、彼らを偉大にするのである。神は彼らに、神の真理の知識をゆだねて、彼らに栄誉をお与えになる。それに比べるならば、地上の栄誉や人間的偉大さは、とるに足りないものなのである。GC 1816.7

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