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各時代の大争闘 - Contents
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    プラハ市の騒動

    光はボヘミアからドイツへと広がった。プラハ大学での騒動のために、何百人というドイツの学生たちが退学したからである。彼らの多くは、フスから初めて聖書の知識を学んだ者たちであって、帰国してから福音を祖国に広めたのである。GC 1636.3

    プラハにおける働きの知らせがローマに伝えられ、フスはすぐに法王からの呼び出し命令を受けた。これに応じることは、自ら死を招くことであった。そこで、ボヘミヤの王と王妃、大学、貴族たち、政府の役人たちは団結して、フスがプラハに留まりローマでは代理者によって箸えることを許されるように、法王に訴えた。ところが法王は、この願いを許すどころか、裁判を行ってフスを罪に定め、プラバ市の破門を宣言した。GC 1636.4

    その時代において、この宣告が発せられることは、一大恐慌をひきおこした。それに伴う諸儀式は、法王を神ご自身の代表者とみなし、彼が天国と地獄のカギを持ち、霊的罰と同様に世俗の罰も与える力があると考えていた人々にとって、恐怖を抱かせずにはおかぬものであった。GC 1636.5

    破門を受けた地方には天の門が閉ざされ、法王が破門を解くまでは死者は天国から閉め出されている、と信じられていた。この恐ろしい災いの証拠として、すべての宗教的儀式は停止された。教会は閉鎖された。結婚式は、教会の庭で行われた。死者は、聖地に埋葬することが許されないので、埋葬式もせずに、みぞとか野原に埋められた。こうして、想像力に訴えるような方法で、ローマは人々の良心を支配しようとした。GC 1636.6

    プラハ市は、大さわぎになった。多くの者は、こうした災いはみなフスによるものであるとして彼を非難し、彼をローマの懲罰に服させるべきであると主張した。さわぎを静めるために、フスはしばらくの間故郷の村に退いた。彼は、プラハに残した友人に次のように井いた。「わたしが、こうして、あなたがたの間から退いたのは、イエス・キリストの教えと模範に従うためである。そしてそれは、悪意を抱いている人々が、自分たちの上に永遠の断罪を招かないようにするとともに、信心深い者たちに苦難と迫害を引き起こすことがないようにするためである。また、不敬虔な司祭たちが、あなたがたの間で神のみ言葉が説教されることを長期にわたって禁じ続けることを恐れたからで ある。わたしは神の真理を拒んで、あなたがたを去去ったのではない。神の真理のためには、わたしは神の助けによって、喜んで命をささげる。」3フスは、彼の活動をやめず、周囲の地方を旅行して熱心な群衆に説教した。こうして、法王が福音を抑圧しようとしてとった手段が、かえってそれを広く伝える結果となった。「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある」(Ⅱコリント13:8)。GC 1636.7

    「フスの生涯のこの時期において、彼の心中では苦しい争闘が演じられていたようである。教会は、その威嚇によって彼を圧倒しようとしたけれども、彼は、教会の権威を否認してはいなかった。彼にとって、ローマの教会は、なおキリストの花嫁であり、法王は神の代表者、代理者であった。フスが争っていたのは権威の乱用に対してであって、原則そのものに対してではなかった。これは、彼の理解に基づく確信と良心の要求との間に、恐ろしい矛盾を引き起こした。GC 1637.1

    もし彼が信じたように、その権威が正当で無謬であるならば、なぜ、それに従い得ないと感じるのであろうか。これに従うことは罪を犯すことであるのが彼にはわかった。しかし、無謬教会に従うことが、なぜこうした問題に至らせるのであろうか。これは彼には解決できない問題であった。これは彼を常に苦しめた疑惑であった。彼が見いだした最も解決に近い答えは、かつて救い主の時代に、教会の祭司たちがよこしまになり、彼らの正当な権威を不正な目的のために用いていたが、それと同じことがまた起こったということであった。こうして彼は、よく理解された聖書の教えを良心の導きとすべきであるという金言を、自分自身のために採用し、また他の人々にも説き勧めるに至った。つまり、神は聖書によって語られるのであって、教会が司祭によって語るのではないことが、誤ることのない手引きなのである。」4GC 1637.2

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