ユダの民は神の律法に従うことを、公式に厳粛に誓った。しかし、エズラとネヘミヤの感化がしばらく取り去られると、主から離れたものが多かった。ネヘミヤはペルシャに帰った。彼がエルサレムにいなかった間に罪悪が忍び込んできて、国家を腐敗させようとしたのである。偶像礼拝者たちは町の中で足場を固めたばかりでなく、彼らが入り込んできて神殿の境内そのものを汚すに至った。大祭司エリアシブと、イスラエルの恨み重なる敵であるアンモン人トビヤとの間には、縁組によって友好関係が結ばれていた。この汚れた同盟の結果、エリアシブは神殿に付随していた部屋を、トビヤが使用することを許した。そこはもと、人々の什一や捧げ物を保管する倉庫であった。 PK 633.6
神はアンモン人とモアブ人が、イスラエルに対して行った残虐と裏切りのゆえに、彼らは永久に神の民の会衆から閉め出されなければならないと、モーセによって言われた(申命記23:3~6参照)。この言葉に反して、大祭司は、神の家のへやに貯えられてあった捧げ物を外に出して、この禁じられた種族の代表者の入る場所をつくった。神と神の真理の敵に対して、このような好意を示すことほど、神に対する大きな侮辱はなかった。 PK 633.7
ネヘミヤはペルシャから帰ってきて、神に対するこ の大胆な冒瀆を知り、直ちに侵入者を追放する手段を取った。彼は次のように言っている。「わたしは非常に怒り、トビヤの家の器物をことごとくそのへやから投げだし、命じて、すべてのへやを清めさせ、そして神の宮の器物および素祭、乳香などを再びそこに携え入れた」(ネヘミヤ13:8、9)。 PK 633.8
神殿が汚されたばかりでなく、捧げ物も誤って用いられた。そのために人々は、惜しみなく捧げることをしなくなった。彼らは熱心さと熱情を失い、十分の一を出ししぶった。主の家の倉には、わずかしか物がなかった。歌うたう者たちや、宮の務めをするために雇われていた多くの人々は、十分の物が与えられずに、神の働きをやめて他のところで働くために去って行った。 PK 634.1
ネヘミヤはこうした害悪を正すために働き始めた。彼は主の務めを去った人々を集めて、「その持ち場に復帰させた。」こうして人々の信頼をかち得た。「そこでユダの人々は皆、穀物、ぶどう酒、油の十分の一を倉に携えてきた。」「忠実な者と思われた」人々が、「倉(の)つかさ」とされた。「彼らの任務は兄弟たちに分配する事であった」(同13:11~13)。 PK 634.2
偶像礼拝者と交わったもう1つの結果は、イスラエルを真の神の礼拝者として、他のすべての国々と区別したしるしである、安息日を無視したことであった。ネヘミヤは異邦の商人や行商人がエルサレムにやって来て、多くのイスラエルの人々に、安息日に商売に従事させていたことを知った。原則を犠牲にすることができない者もあったが、他の者は、良心的に従おうとする人々の道徳観念を抑えつけて、律法を犯し異教徒と同調した。ネヘミヤは次のように書いている。「そのころわたしはユダのうちで安息日に酒ぶねを踏む者、麦束を持ってきて、ろばに負わす者、またぶどう酒、ぶどう、いちじくおよびさまざまの荷を安息日にエルサレムに運び入れる者を見た……。そこに住んでいたツロの人々もまた魚およびさまざまの品物を持ってきて、安息日にユダの人々に売り、エルサレムで商売した」(同13:15、16)。 PK 634.3
このような事は、つかさたちが権威を行使したならば、防ぐことができたのであった。しかし彼らは、自分たちの利益を増進するために、神を敬わない人々に味方したのである。ネヘミヤは彼らが義務を怠ったことを、恐れることなく譴責した。彼は厳し責めた。「あなたがたはなぜこの悪事を行って、安息日を汚すのか。あなたがたの先祖も、このように行ったので、われわれの神はこのすべての災を、われわれとこの町に下されたではないか。ところがあなたがたは安息日を汚して、さらに大いなる怒りをイスラエルの上に招くのである」(同13:17、18)。 PK 634.4
「そこで安息日の前に、エルサレムのもろもろの門が暗くなり始めた時」、ネヘミヤはそのとびらを閉じさせ、安息、日が終わるまでこれを開いてはならないと命じた。そして彼は、エルサレムのつかさたちが任命する者よりも、自分のしもべたちを信用していたので、彼らを門においてこの命令を実施させた(同13:19)、 PK 634.5
「商人およびさまざまの品物を売る者どもは」、なかなかその考えを変えようとせず市民または田舎の人々と商売をする機会を得ようとして、「1、2回エルサレムの外に宿った」(同13:20)。ネヘミヤは、もしそのようなことが続くならば、罰を加えると彼らに警告を発した。「あなたがたはなぜ城壁の前に宿るのか。もしあなたがたが重ねてそのようなことをするならば、わたしはあなたがたを処罰する」と、彼は厳しく言った。「そのとき以来、彼らは安息日にはこなかった」(ネヘミヤ13:21)。彼はまたレビ人が、一般の民よりは人々の尊敬を受けているのを知っていたので、彼らに命じて門を守らせた。彼らは神の務めに密接な関係があったので、神の律法への服従を実施するのに、大いに熱心であることを期待されるのは当然であった。 PK 634.6
さてネヘミヤは、イスラエルが偶像礼拝者たちと雑婚して交わることによって、ふたたび陥ろうとしていた危険に目を向けた。彼は次のように書いている。「そのころまた、わたしはアシドド、アンモン、モアブの女をめとったユダヤ人を見た。彼らの子供の半分はアシドドの言葉を語って、ユダヤの言葉を語ることができず、おのおのその……民の言葉を語った」(同13: 23、24)。 PK 634.7
このような律法に背いた結合は、イスラエルに大きな混乱を引き起こした。こうした縁組を結んだ者の中には、人々が勧告を求め、安全な模範として見上げるべき高い地位の人、つかさたちがいた。ネヘミヤはもしこの害悪が続いたならば、どのような破滅が国家を襲うかを予知して、熱心に悪者たちに訴えた。彼はソロモンの例を指摘して、諸国の中にこの人ほどの王は起こらなかったことを、彼らに思い起こさせた。神は彼に大いなる知恵をお与えになったのである。それにもかかわらず偶像を礼拝する女たちが、彼の心を神から引き離した。そして彼の模範が、イスラエルを腐敗させたのである。ネヘミヤは厳しく言った。「それゆえあなたがたが……このすべての大いなる悪を行(う)……のを、われわれは聞き流しにしておけようか。」「あなたがたは彼らのむすこに自分の娘を与えてはならない。またあなたがたのむすこ、またはあなたがた自身のために彼らの娘をめとってはならない」(同13:27、25)。 PK 635.1
彼が人々の前に神の命令と警告とを示し、この罪そのもののゆえに過去においてイスラエルに下った、恐るべき刑罰を示した時に、彼らの良心は目覚めて改革の働きが起こり、警告を発せられていた神の怒りは取り去られ、神の嘉納と祝福が与えられたのである。 PK 635.2
聖職についていた者の中には、異邦の妻と別れることができないと言って、彼らのために嘆願する者もあった。しかし特別の措置は与えられなかった。階級や地位に対する考慮は払われなかった。祭司やつかさたちのうちで偶像礼拝者との離別を拒んだ者は、直ちに主の奉仕から引き離されたのである。悪名高いサンバラテの娘と結婚した大祭司の孫は、職を解かれただけでなく、直ちにイスラエルから追い出された。「わが神よ、彼らのことを覚えてください。彼らは祭司の職を汚し、また祭司およびレビびとの契約を汚しました」と、ネヘミヤは祈った(ネヘミヤ13:29)。 PK 635.3
神のために忠実に働いたネヘミヤにとって、このやむを得ぬ厳格さがどれだけ彼の心を痛めたかは、審判の時にのみ明らかにされることであろう。反対の勢力との争いが絶えず起こり、断食と屈辱と祈りによってのみ、前進することができたのである。 PK 635.4
偶像礼拝者と結婚した者の多くは、彼らとともに追われることを選び、会衆から追放された者はサマリヤ人に加わった。神の働きにおいて高い地位を占めていた人々もここへ行き、しばらく後には、全く彼らと運命を共にするに至った。サマリヤ人たちはこの同盟を強化するために、さらにユダヤの信仰と習慣を取り入れることを約束した。そして背信者たちは、彼らの以前の兄弟たち以上のことをしようと決意して、ゲリジム山に神殿を築き、エルサレムにある神の家に対抗させようとした。彼らの宗教は、ユダヤ教と異教主義の入り交じったものとして継続し、彼らが神の民であると主張したことは、世々にわたって二国間の分裂、競争、敵意のもとになった。 PK 635.5
今日推進されるべき改革の働きにおいて、エズラやネヘミャのように、罪の軽減も、言い訳もせず、恐れずに神の栄誉を擁護する人々が必要である。この働きの重責を担う人々は、悪が行われる時に沈黙したり、偽りの慈善という衣で、罪悪を覆ったりはしないのである。 PK 635.6
彼らは神が公平なかたであることを思い出し、数名を厳格に処罰することは、多くの人々を救うことを思い出す。そしてまた彼らは、悪を譴責する者は、常にキリストの精神をあらわすべきであることを忘れないのである。 PK 635.7
エズラとネヘミヤはその仕事を行った時に、神の前にへりくだって自分たちの罪と民の罪を告白し、自分たちが罪を犯した者であるかのように赦しを求めた。彼らは忍耐強く働き、祈り、苦難に耐えた。彼らの働きを最も困難にしたのは、異教徒のあからさまな敵意ではなくて、友人を装った者のひそかな反対であった。彼らは悪に加担し、神のしもべたちの重荷を10倍も重くしたのである。こうした反逆者たちから、主に敵対する者たちは、神の民と戦う時に利用する材料を供給されたのである。彼らの邪悪な心と 反逆的意志とは、常に神の明白な要求に戦いを挑んだのであった。 PK 635.8
ネヘミヤの努力が成功したことは、祈りと信仰と、賢明で活発な行動が何を成し遂げることができるかを示している。ネヘミヤは祭司ではなかった。彼は預言者でもなかった。彼は大きな称号を求めなかった。彼は大切な時に立てられた改革者であった。人々を神との正しい関係に引きもどすことが、彼の目的であった。彼は大きな目的に心を動かされて、彼の存在の総力をその達成のために費やしたのである。彼の努力は、あくまでも清廉潔白なものであった。彼は罪悪と正義に対する反対に当面したとき断固たる態度をとったので、人々は奮い立って、新しい熱心と勇気をもって働いたのである。彼らはネヘミヤの忠誠、その愛国心、神に対する深い愛を認めないわけにはいかなかった。そしてこれを悟ったうえで、彼らは喜んで彼の指導に従った。 PK 636.1
神がお定めになった義務を勤勉に果たすことは、真の宗教の重要な一部分である。人間は時の情況を、神のみ心を達成する手段として捕らえなければならない。適当な時に直ちに決定的行動をとれば、輝かしい勝利を得ることができるが、遅延と怠慢は失敗に終わり、神のみ栄えを汚すことになる。もしも真理の運動の指導者が、熱を示さず無関心で目標が定まっていないならば、教会は冷淡で怠惰で享楽的になる。しかしもし彼らが、神のみに仕えるという聖なる決意に満ちているならば、民は一致して、希望にあふれ、熱心になるのである。 PK 636.2
神の言葉は、明確で著しい対照に満ちている。罪と聖とが併記されているから、それを見てわれわれは、一方を避けて他方を受け入れればよいのである。サンバラテとトビヤの憎しみと虚偽と裏切りを描写したページは、また、エズラとネヘミヤの気高さと献身と自己犠牲をも描写しているのである。われわれは自由に、どちらでもまねてよいのである。神の命令に背いた恐るべき結果が、服従に従う祝福と対照されている。われわれは一方の罰を受けるか、他方の祝福にあずかるかを、自分で決定しなければならないのである。 PK 636.3
ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤの指導のもとに、帰還した捕囚たちが行った回復と改革の働きは、この地上歴史の最後の時代に行われるべき、霊的回復の働きの情景を示している。イスラエルの残りの民は、敵の襲撃にさらされた弱い民であった。しかし神は、彼らによって、神ご自身とその律法についての知識を地上に示そうとなさった。彼らは真の礼拝の擁護者であり、聖なる言葉の保管者であった。彼らは神殿を再建し、エルサレムの城壁を建設した時に、様々の経験をしたのである。彼らは強力な反対に当面しなければならなかった。この工事の指導者たちの負った荷は、実に重かった。しかしこの人々は、神が真理に勝利をお与えになることを信じつつ、揺るがぬ確信と謙遜な精神と、神に対する固い信頼をもって前進した。ネヘミヤはヒゼキヤ王のように、「固く主に従って離れることなく、主が……命じられた命令を守った。主が彼と共におられた」(列王紀下18:6、7)。 PK 636.4
ネヘミヤの時代に推進された働きが象徴していた、霊的回復が、次のイザヤの言葉の中に示されている。「彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たに」する。「あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる」(イザヤ61:4、58:12)。 PK 636.5
広く一般が真理と正義から離反している時に、神の国の基礎である原則を回復しようとする人々のことを、預言者はここで描写しているのである。彼らは神の律法の破れを回復する人々である。すなわち神の律法は、神が選民を保護するために、彼らの周りに置かれた城壁であって、その正義、真理、純潔である戒めに従うことが、彼らを永久に保護するのである。 PK 636.6
預言者は間違えようのない明白な言葉で、城壁を建設するこの残りの民の、特別な働きを指示している。rrもし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず安息日を喜びの日と呼 び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わずおのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う』。これは主の口から語られたものである」(同58:13、14) PK 636.7
終末時代に、神のすべての戒めが回復される。人間が安息日を変更した時にできた、律法の破れが回復される。神の残りの民は改革者として世の前に立ち、神の律法がすべての永続的改革の基礎であって、第4条の安息日は創造の記念であり、常に神の力を思い起こさせるものであることを、示さなければならない。彼らは明白な言葉で、十誠のすべての戒めに服従する必要を示さなければならない。彼らはキリストの愛に動かされて、キリストと共に力を合わせて、荒れすたれた所を復興しなければならない。彼らは、破れを繕う者、市街を繕って住むべき所となす者、とならなければならないのである(イザヤ58:12参照)。 PK 637.1