預言者は教師であるよりは荒野に叫ぶ声でした。しかし彼らが語り書いたものによって、わたしたちは彼らが身をもって示した宗教的真理を学ぶことができます。これらの真理は古今まれにみる深さと高さをもっています。いま神についての真理に限ってこれを学んでみましょう。 PK 667.4
預言者たちが神の存在について少しの疑いも示していないことは先に述べた通りです。これは旧新約聖書を通して言えることですが、神が存在するか、存在しないかという議論は全くありません。このことは現代人にとって何かもの足りないと感じさせることであるかも知れません。現代人はまず神が存在するかしないかと議論して、もし神があるという結論をみんなが持つなら信じようというのです。しかし神は議論して分かるようなものではありません。神を知るのは全人格的な出会いによるのです。自分にとって真実の友を見出したのが理詰めの議論によってではなく、彼との全人格的な交わりによってであったのと同じことです。イスラエルの預言者たちはすべて神との出会いを経験し、その圧倒的な力強い経験によって神に聞き、神を語ることができたのです。 PK 667.5
さて預言者たちが信じた神は、その名をヤーウェと言いました。このヤーウェという名は1日約聖書の中に6800回以上も用いられていながら、誰もこれを読まなかったという不思議な名です。ヘブル語の聖書ではYHWHと書かれていますが、これを聖四文字と言って古来だれも□にしてはならない神聖な名として、その発音が禁じられていました。日本語の聖書では「主」となっています。 PK 667.6
ヤーウェの語源は、「落す」とか「在る」ということばにあると考えられています。旧約聖書の出エジプト3章に、モーセが神の啓示に接したとき、神の名をたずねたところ、「わたしは、有って有る者」という名が示されました。この「有る者」というのは、哲学的な意味でとらえるのではなく、「わたしは現実にまた真実にここにいる」という意味であると言われています。旧約聖書にしばしば出てくる、「主は生きておられる」というのも同じことを示しています。 PK 667.7
預言者たちはこの神の名が示す通りの神と出会う経験をしているのです。この神との出会いこそ彼らが伝えた第一の宗教的真理と言うことができるでしょう。 PK 667.8
次に預言者たちが信じた神は唯一の神でした。 PK 667.9
「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6:4、5)。 PK 667.10
古代世界は神々の世界でした。ギリシャ、ローマをはじめとして、それより古いエジプトやメソポタミヤには数えきれない神々と神々の像がありました。たとえば有名なミロのヴィーナスもその/つです。このような神々はすべて人間と自然の事物が神格化されたものでした。なぜ人間は神々をつくったのか。1つには人間がもつ強い願望です。人間は自分の強烈な願望を表現したいのです。そこで心にあるものの形像として神々をつくるのです。 PK 668.1
もう1つは生存のための道具です。人間は自然と戦い、他民族と戦って生きていくために必要な力を求めています。予想できない災害や敵に対して、有効な助けを与えてくれる運を期待します。運は神々がもたらすものとされました。また常人以上の能力も神々が与えるものとされました。 PK 668.2
今日では、願望の表現としての神々は依然として有勢ですが、道貝としての神々は大方姿を消しています。人間が生存のための有力な道具を発見していくにつれて、神々は姿を消していきました。 PK 668.3
唯一神教は多神教と全く異なっています。ここでは神は人間の生存のための道具ではありません。かえって神の意志を行う道具が人間です。また神は人間の願望の表現ではありません。かえって人間のあらゆる願望をはるかに超越した存在です。多神教は神々と人間と自然の融合の上に成り立っていますが、唯一神の観念は神は創造者であり、人間と自然は被造物であり、その間にこえることのできない質的な断絶があることを教えます。多神教の世界は人間と自然の写しですが、唯一神教ではこの世界をこえた超越する世界の存在を示します。多神教は結局人間が自分をあがめ、自分を拝んでいることになるのです。これに反し、唯一神教では人間は自分をこえた絶対者をあがめ拝んでいるのです。 PK 668.4
人間とこの世界の根本に横たわっている問題のことを考えますと、多神教ではその解決はできません。「エチオピア人がその黒い肌を白くすることができようか」「それと同じように罪人が義人になることができようか」と聖書は問うています。人間とこの世界がもつ問題は政治的、経済的に解決できるものではありません。また教育によっても解決できません。それは人間自身の変革なしに解決不可能な問題です。それを解決できるのは唯一の神以外にないのです。預言者の力の源泉はこの唯一の神への信念にあるのです。 PK 668.5
預言者たちが信じた神、唯一の神はではどんな性質をもったお方なのかということをしらべてみましょう。まずヤーウェは「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」と述べられています(出エジプト34:6)。神が恵み深いお方だということを、預言者たちは身をもって体験しました。神の恵みは「真実な愛情」を意味すると言われています。父が子に対するように、夫が妻に向かうように、神は人間に「真実な愛情」をもって交わりをもたれるのです。 PK 668.6
神はまた義の神です。神は恵み深く、愛の神ですが、同時に義の神でもあるのです。義の神というとき預言者たちが語ることに2つの大切な意味がありました。1つは神は正しい神であるということで、もう1つは神は救いの神だということです。この2つは深いところでつながっていました。まず神は正しい神であって、そこに不正の何のかげも見出すことはできません。また神はその正しい性質から、すべての被造物が正しく生きることを求めています。この神の正しさの要求が律法なのです。そしてこの律法こそ人間の道徳の土台なのです。宗教と道徳はしっかり結び合っていなければなりません。宗教的な確信のない道徳は裏表のあるうわべだけのものになってしまいます。また道徳のない宗教は迷信に陥るか、世俗と妥協するかします。預言者の偉大さは神の正しさを体現したことにあります。 PK 668.7
神は正しい神ですから不正を行った罪人をさばきます。そのさばきはどんな立派な人間でも耐えることができないきびしいさばきです。心の思い までもさばかれるからです。 PK 668.8
それと同時に、神は正しい神ですから不正を行った罪人をゆるします。罪人をゆるすことができるのは、正しい神をおいて他にないのです。このことは新約聖書の時がきて、イエス・キリストが罪人の罪を負って十字架の死をとげられた時に、より明らかに理解されるようになりました。詩篇には罪をゆるされたものの幸いについて喜びの歌が書かれています。神はさばきまたゆるす神です。 PK 669.1
神はまた聖なる神です。聖ということは、今日の世界ではほとんど失われてしまいました。世俗の世界では聖なる場所も、聖なる時もなくなってしまいました。このことは人間の世界が宗教の呪縛を破って、誰にでも開かれた平明な世界になったことを示しているようですが、一方、現代における精神性の萎縮も示しているようです。事実、ヤーウェとの人格的な出会いなしに、真実に聖ということは考えることができません。ヤーウェは人と出会う時人の心を震憾させます。人は神の前におののき自己の汚れを意識します。聖なる神とはヤーウェの全存在性です。それは人の心を畏怖させてやまない限りなく大きいものの現臨です。そこでは人間はことばを失います。感情も凍ります。ただ自分の有限な被造物の意識をもってひれ伏すだけです。 PK 669.2
預言者の神経験は宗教経験の極致を示しています。それは霊的アルプスの高山にたとえられています。幾世紀にわたって、人類はこの高峰から清冽な命の水を汲んできました。預言者たちは、各時代の人類に向かって呼びかけています。「あなたがたの神はこう言われた」と。 PK 669.3