では、なぜ教会は、キリスト再臨の教義と説教を、このように歓迎しなかったのであろうか。主の再臨は、悪人に災いと滅びをもたらすが、義人にとっては喜びと希望に満ちている。この大真理は、各時代にわたって、神の忠実な者たちの慰めであった。それがなぜ、ユダヤ人たちにとってのイエスと同様に、神の民と称する人々にとって「つまずきの石、さまたげの岩」となったのであろうか。「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」と弟子たちに約束されたのは、主ご自身であった(ヨハネ14章3節)。 GCJap 390.1
弟子たちのさびしさと悲しさを思って、天使たちに、自分は天に昇っていったのと同じありさまでまた来るという保証を与えて彼らを慰めるように命じられたのは、憐れみ深い救い主であった。弟子たちが、愛する主の最後の姿を見ようとして、天を見つめて立っていると、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」という言葉に注意を引かれた(使徒行伝1章11節)。弟子たちは、天使の言葉によって、新たな希望を抱いた。彼らは、「非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24章52、53節)。彼らが喜んだのは、イエスが彼らを去り、残された彼らが世の試練や誘惑と戦わねばならなくなったからではなくて、天使が彼らに、主はまた来られるという保証を与えたからであった。 GCJap 390.2
今日、キリスト再臨の布告は、天使たちがベツレヘムの羊飼いたちに告げた時のように、大きな喜びの知らせでなければならない。救い主を真に愛する人々は、聖書に基づいた告知を、喜びをもって叫ばないではおられない。永遠の生命という彼らの希望の中心であられる主が、初臨の時のように嘲笑され、侮辱され、拒否されるためではなくて、力と栄光のうちに神の民を贖うために、また来られるのである。救い主を遠ざけておこうと望む者は、彼を愛さない人々である。この天からの使命にいらだちを感じ、悪意をいだくことほど、教会が神から離反したことの決定的証拠はないのである。 GCJap 391.1
再臨の教義を受け入れた者は、神の前に悔い改めてへりくだることの必要を自覚した。キリストと世との間をためらっていた者が多くいたが、今こそ決心すべき時であると感じた。「彼らには、永遠に関することが、これまでになく現実のものとなった。天は近くなり、神の前に自分たちの罪深さを感じた」。キリスト者は、新しい霊的生命に活気づいた。彼らは、時が短いことを感じ、同胞のためになすべきことは、速やかにしなければならないと感じた。地は退いていき、永遠が彼らの前に開かれるように思われた。そして、魂とその永遠の運命にかかわるすべてのことが、地上のすべてのものの光をあせさせるように感じられた。神の霊が彼らに宿り、罪人に対すると同様に同信者たちに対しても、神の日の準備をするように熱心に訴える力を与えた。彼らの日ごとの生活の無言のあかしは、形式的で献身していない教会員に対する絶えざる譴責であった。この人々は、自分たちの快楽の追求、金もうけへの熱意、世俗の栄誉欲などが妨げられるのを望まなかった。そのために、再臨の信仰とそれを宣布する者に対して、敵意と反対が起こったのであった。 GCJap 391.2