反対者たちは、預言の期間に関する議論にはとうてい打ち勝てないので、預言は封じられたものであると教えることによって、この問題の研究を妨げようとした。こうしてプロテスタントも、カトリック教会がしたのと同じことをしたのである。ローマ・カトリック教会は、人々に聖書を読むことを禁じたが、プロテスタント教会は、聖書の重要な部分─―それも、われわれの時代に特に適用される真理を示している部分―─を、理解することができないと主張したのである。 GCJap 392.1
牧師と信徒とは、ダニエル書と黙示録の預言は、不可解な神秘であると言った。しかし、キリストは、ご自分の弟子たちの時代に起こる出来事に関する預言者ダニエルの言葉を示して、「(読者よ、悟れ)」と言われた(マタイ24章15節)。また、黙示録が神秘であって理解できないという主張は、この書の表題そのものと矛盾している。 GCJap 392.2
「イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、……この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである」(黙示録1章1~3節)。 GCJap 392.3
預言者は言う、「朗読する者はさいわいである」。読もうとしない者もいるであろうが、そうした人々には祝福は与えられない。「これを聞いて」。預言のことは何一つ聞こうとしない人々もいる。この人々も祝福を受けることができない。「その中に書かれていることを守る者たち」。黙示録に記されている警告や教えに注意しようとしない者が多い。このような人々は、約束された祝福を受けることができない。預言の諸問題をあざ笑い、そこに厳粛に示された象徴を嘲笑する者、また、生活を改めて人の子の再臨の準備をすることを拒む者は、みな祝福を受けることができない。 GCJap 392.4
このような聖書の証言がある以上、黙示録は人間の理解を超えた神秘なものであるなどと、どうして教えることができよう。それは啓示された神秘であり、開かれた書である。黙示録の研究は、ダニエル書の預言に心を向けさせる。この両書は、世界歴史の終末に起きる諸事件について、神からの最も重大な教えを与えている。 GCJap 393.1
ヨハネは、教会が経ていくさまざまな興味深い場面を見せられた。彼は、神の民の立場、危険、争闘、そして最後の救済を見た。彼は、地の収穫を実らせる最後の使命を記録している。人々は天の倉に収められる穀物になるか、それとも、滅びの火で焼かれる束になるかである。非常に重大な問題が彼に示された。それは、特に最後の教会に対するものであって、誤りを捨てて真理を信じる者に、彼らが出会う危険と闘いに関して教えるためのものであった。地上に起ころうとしている事件について、だれも無知である必要はないのである。 GCJap 393.2
それでは、一般の人々はなぜ、聖書の重要な部分に対して、このように無知なのであろうか。なぜ、人々は一般にその教えを研究するのをいやがるのであろうか。 GCJap 393.3
それは、暗黒の君が、自分の欺瞞を暴露するものを、人々から隠そうとする巧妙な策略の結果である。そのために、啓示者であられるキリストは、黙示録の研究に対する戦いを予見して、預言の言葉を読み、聞き、守るすべての者に、祝福を宣言されたのであった。 GCJap 393.4