パウロは、主の再臨が不意に来ることになる人々のことについて語っている。「主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に……突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない」。しかし、救い主の警告に心をとめた人々について、次のようにつけ加えている。「しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない」(テサロニケ第一・5章2~5節)。 GCJap 426.1
こうして、聖書は人々が、キリストの再臨の切迫について何も知らずにいてよいとは認めていないことが明らかにされた。しかし、真理を拒否する口実だけを求めていた人々は、この説明に耳を閉ざし、大胆にあざける者たちや、またキリストの牧師と称する人々さえも、「その日、その時は、だれも知らない」という言葉を叫び続けた。人々が目を覚まして、救いの道を求め始めると、宗教の教師たちは、彼らと真理の間に介入し、神の言葉を曲解することによって彼らの恐れをしずめようとした。不忠実な見張人たちは、一致して大欺瞞者の働きをなし、神が平和を語られないのに、平和だ無事だと叫んだ。キリスト時代のパリサイ人のように、多くの者は、自分自身天国に入ることを拒み、それに入ろうとする者を妨げたのであった。この人々の血の責任は、彼らの手に求められるのである。 GCJap 426.2
たいていの場合、教会内の最も謙遜で献身した人々が、最初にメッセージを受け入れた。聖書を自分で研究した人々は、預言に関する一般的見解が非聖書的であることを見ないわけにはいかなかった。そして、人々が牧師たちの支配下にないところでは、また人々が自分たちで聖書を研究したところでは、どこでも、再臨の教義が神の権威に基づくということは、ただ聖書と比較するだけで明らかとなった。 GCJap 427.1
多くの者は、不信仰な信者仲間たちから迫害された。教会での地位を保つために、その希望について沈黙を守ることに同意した者もあった。しかし、神に忠実であれば神がゆだねられた真理を隠すことはできないと感ずる者もあった。キリスト再臨の信仰を表明しただけで教会から除名された者も、少なくなかった。信仰のこうした試練に耐えた者にとって、「あなたがたの兄弟たちはあなたがたを憎み、あなたがたをわが名のために追い出して言った、『願わくは主がその栄光をあらわして、われわれにあなたがたの喜びを見させよ』と。しかし彼らは恥を受ける」という預言者の言葉は、本当に貴いものであった(イザヤ書66章5節)。 GCJap 427.2
神の天使たちは、警告の結果を非常な興味をもって見守っていた。教会が全般的に使命を拒否すると、天使たちは悲しみながら去って行った。しかし、再臨の真理について、まだ試みられていない人々が多くいた。夫、妻、両親、子供たちなどに迷わされて、再臨信徒が説く異端は、聞くだけでも罪であると思った者が多くいた。天使たちは、このような人々をよく見守るように命じられた。なぜならば、もう一つの光が、神のみ座から彼らの上に輝くことになっていたからである。 GCJap 427.3