バビロンに対して宣告された大罪は、「その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた」ことである。バビロンが世界に提供するこの杯は、バビロンが地上の勢力者たちと不法な関係を結んだ結果受け入れた、偽りの教義をあらわしている。世を友とすることは、その信仰を腐敗させる。そして一方バビロンのほうは、聖書の明白な言葉に反対する教義を教えて、世に腐敗的影響を及ぼすのである。 GCJap 445.1
ローマは、人々から聖書を取り上げて、その代わりにローマの教えを受け入れるよう、すべての者に要求した。神の言葉を人々に取り戻すことが、宗教改革の働きであった。しかし、今日の教会においては、聖書よりはむしろ教会の信条や教義を信じるように人々に教えているのが、隠れもない事実ではなかろうか。チャールズ・ビーチャーは、プロテスタント教会についてこう語った。「かつて父祖たちが、自分たちが助長していたところの聖人や殉教者たちへの崇敬の念の高まりに対して、それを非難する言葉を注意深く避けたように、今日の新教教会は、信条を非難するどのような言葉をも、注意深く避けている。……プロテスタントの福音諸教派は、自分の教派はもちろんのこと、他の教派とも非常に堅く互いに手を握り合っているために、聖書以外に何かの書を受け入れるのでなければ、だれも絶対に牧師になることができない。……昔、ローマが聖書を禁じたと同様に、今や信条の力が、より隠微な方法によってではあるが、聖書を禁じ始めていると言っても、決して単なる想像ではないのである」。忠実な教師が、神の言葉を説明すると、学者や、自分は聖書を理解していると主張する牧師たちがあらわれて、健全な教理を異端であると非難し、こうして真理の探究者を追い返すのである。世界がバビロンの酒に酔いつぶれていさえしなければ、多くの者は、神の言葉の明白で鋭い真理によって心を打たれ、改心することであろう。しかし、宗教的信条が非常に混乱し矛盾しているように思えるので、人々は何を真理として信じてよいのかわからずにいる。世界が悔い改めないのは、教会の責任である。 GCJap 445.2