この運動は、潮流のように全土を覆った。町々、村々、そして僻地にまで伝えられて、待望していた神の民は、完全に目覚めるに至った。狂信は、昇る太陽の前の朝霜のように、この宣言の前に消えていった。信徒たちは、自分たちの疑いと困惑とが取り除かれたことを知り、希望と勇気が彼らの心を活気づけた。この運動には、人間的興奮だけで神の言葉と霊に支配されていない時に常にあらわれるところの極端さがなかった。それは、古代のイスラエルが、神のしもべたちからの譴責のメッセージを受けて、心を低くし、主に立ち返る時の様子に似ていた。それは、各時代における神の働きのしるしであるところの特徴を帯びていた。彼らは無我夢中で喜ぶということはせず、深く心を探り、罪を告白し、世俗を捨てるのであった。主に会う準備をするということが、苦悶する魂の、心の重荷であった。彼らは、たゆまず祈るとともに、神に全的に献身した。 GCJap 459.3
ミラーは、その働きを次のように述べている。「大きな喜びの表現などはない。それは、天と地のすべてが、言葉に尽くせない輝きに満ちた喜びをもって共に喜ぶ将来の時まで、抑えておくもののように思われた。大声で叫ぶこともない。それもまた、天からの叫びがあるまで取っておかれる。歌う者たちもだまっている。彼らは、天使たち、天からの聖歌隊に加わるのを待っている。……感情の衝突はない。すべての者は、心を一つにし、思いを一つにしている」 GCJap 460.1
この運動に参加した他の者は、次のように証言した。「この運動は、至るところで、人々に深く心を探らせ、天の神の前に心を低くさせた。それは、この世の事物に対する愛着を捨てさせ、争いと敵意を和解させ、罪の告白と神の前での屈伏を行わせ、悔いくずおれて神に赦しと嘉納を求めさせた。それは、これまでわれわれが目撃したことがなかったほど、人々の心を神の前に低くし、ひれ伏させた。神がヨエルによって命じられたように、神の大いなる日が近づいた時、人々は、衣服ではなく心を裂いて、断食と嘆きと悲しみとをもって主に帰った。また、神がゼカリヤによって言われたように、神の子供たちに、恵みと祈りの霊とが注がれた。彼らは自分たちが刺した主を見、全地に大きな悲しみが起きた。……そして、主を待ち望んでいた者たちは、そのみ前で心を悩ました」 GCJap 460.2
使徒時代以来のすべての大宗教運動の中で、一八四四年秋の運動ほど、人間の不完全さとサタンの策略に妨げられなかったものはない。それから長年経過した今でさえ、その運動に参加し、堅く真理に立った者はみな、今なおあの祝福された事業の神聖な力を感じ、それが神からのものであったことを証言するのである。 GCJap 460.3