人類の仲保者としてのキリストの働きは、「その名を枝という人」に関するゼカリヤの美しい預言の中に示されている。預言者は、次のように言っている。「彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位〔天父の〕に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある」(ゼカリヤ書6章12、13節)。 GCJap 476.3
「彼は主の宮を建て」る。キリストは、彼の犠牲と仲保とによって、神の教会の基礎であり、またその建設者でもあられる。 GCJap 477.1
使徒パウロは、彼を指して、「隅のかしら石である」と言っている。「このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである」(エペソ2章20~22節)。 GCJap 477.2
「彼は……王としての光栄を帯び」、堕落した人類のための贖いの栄光は、キリストにのみ帰せられる。贖われたものは、永遠にわたって、「わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し……て下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように」と歌う(黙示録1章5、6節)。 GCJap 477.3
「その位に座して治める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がい」る。彼は今「その栄光の座に」おられるのではない。栄光の王国は、まだ始まってはいない。仲保者としての彼の働きが終わらなければ、神は、「彼に父ダビデの王座を」、「限りなく続く」その支配を、「お与えにな」らない(ルカ1章32、33節)。キリストは今、祭司として、父とともにみ座についておられる(黙示録3章21節参照)。永遠の、自存なさるお方とともに、「われわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」方、「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われ」、「試練の中にある者たちを助けることができる」方がおられるのである。「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主……がおられる」(イザヤ書53章4節、ヘブル4章15節、2章18節、ヨハネ第一・2章1節)。彼の仲保は、刺され砕かれた体による仲保、罪のない生涯による仲保である。傷ついた手、刺されたわき、傷ついた足が、罪に陥った人類のために嘆願しておられる。人間の贖罪のためには、このように無限の価が払われたのである。 GCJap 477.4
「このふたりの間に平和の一致がある」。み子の愛に劣ることのない天父の愛が、失われた人類に対する救いの基礎である。イエスは、去る前に弟子たちに次のように言われた。「わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである」(ヨハネ16章26、27節)。 GCJap 478.1
「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」られた(コリント第二・5章19節)。そして、天の聖所の奉仕において、「このふたりの間に平和の一致がある」「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。 GCJap 478.2