最初に布告された時と同様に、第四条は、十戒の中心の位置を占めている。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト記20章8~11節)。 GCJap 497.3
神の霊が、これらみ言葉の研究者たちの心に感動を与えた。彼らは、自分たちが創造主の休みの日を無視して、知らずにこの戒めを犯していたことを悟らせられた。彼らは、神が清められた日の代わりに週の第一日を守るその理由を調べ始めた。彼らは、第四条が廃されたとか、安息日が変更されたとかいう証拠を、聖書の中に見つけることができなかった。最初に七日目を聖別した祝福は、取り除かれてはいなかった。彼らは真心から、神のみこころを知り実行しようとしていた。そして今、彼らは、自分たちが神の律法の違反者であることを知って、深く悲しんだ。そして、神の安息日を清く守ることによって、神への忠誠をあらわした。 GCJap 498.1
彼らの信仰を覆そうとして、さまざまな熱心な働きかけがなされた。地上の聖所が、天の聖所の象徴であり、ひな型であるならば、地上の箱の中の律法は、天の箱の中の律法の正確な写しであるということは、だれの目にも明白なことであった。 GCJap 498.2
そして、天の聖所に関する真理を信じることは、神の律法の要求を認め、第四条の安息日の義務を認めることを必然的に伴う、ということも明白である。ここに、天の聖所におけるキリストの奉仕を明らかにする、調和のとれた聖書解釈法に対して、厳しく断固たる反対が起こる原因があった。人々は、神が開かれた門を閉ざし、神が閉じられた門を開けようとした。しかし、「開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者」が、「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた」と宣言しておられた(黙示録3章7、8節)。キリストは、至聖所の門を、つまり、その務めを、お開きになった。そして、光が、天の聖所のその開かれた門から輝いていた。そして、そこに置かれた律法の中に第四条の戒めが含まれていることが示された。神が確立されたものを、だれも覆すことはできなかった。 GCJap 498.3
キリストの仲保と神の律法の永遠性に関する光を受け入れた人々は、これらが黙示録14章に示された真理であることを見いだした。この章のメッセージは、主の再臨のために地上の住民に準備をさせる三重の警告から成っている。「神のさばきの時がきた」という告知は、人類の救いのためのキリストの務めの最後の働きを指している。それは、救い主のとりなしが終わり、彼がご自分の民を迎えるために地上に帰られるまで宣布しなければならない真理を伝えるものである。一八四四年に始まった審判の働きは、生きている者も死んだ者も、すべての者の運命が決定されるまで継続しなければならない。したがって、これは、人類の恩恵期間の終わりまで続くのである。人々に審判に立つ準備をさせるために、メッセージは、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ」「天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」と彼らに命じている。これらのメッセージを受け入れる結果は、「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」という言葉であらわされている。審判に対する備えをするためには、人は神の律法を守らなければならない。その律法が、審判の時の品性の規準となるのである。 GCJap 499.1
使徒パウロは、次のように言明している。「律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。……神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に」、また、彼は、「律法を行う者が、義とされる」と言っている(ローマ2章12~16節)。神の律法を守るためには、信仰が不可欠である。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」「すべて信仰によらないことは、罪である」(ヘブル11章6節、ローマ14章23節)。 GCJap 499.2