第一天使は、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ」、神を天地の創造主として礼拝せよと、人々に呼びかけている。そうするためには、神の律法に従わなければならない。賢者は、「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と言っている(伝道の書12章13節)。神の戒めに対する服従がないならば、どんな礼拝も神に喜ばれることはできない。「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである」「耳をそむけて律法を聞かない者は、その祈でさえも憎まれる」(ヨハネ第一・5章3節、箴言28章9節)。 GCJap 500.1
神を礼拝する義務は、神が創造主であり、他のすべてのものはその存在を神に依存している、という事実に基づいている。そして、聖書の中で、異教の神々にまさって神が崇敬と礼拝を受けるべきであると示されている時は、常に、神の創造の力がその実証としてあげられている。「もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた」(詩篇96篇5節)。「聖者は言われる、『それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか』。目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」「天を創造された主、すなわち神であって、……地を……造られた主はこう言われる、『わたしは主である、わたしのほかに神はない』」(イザヤ書40章25、26節、45章18節)。 GCJap 500.2
詩篇記者も言っている。「主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである」「さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう」(詩篇100篇3節、95篇6節)。また、天において神を礼拝する聖者たちは、神をあがめるべきその理由として、「あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました」と述べている(黙示録4章11節)。 GCJap 500.3
黙示録14章には、創造主を礼拝するようにという呼びかけが人々に対してなされている。そして、三重の使命の結果として、神の戒めを守る一団の人々が起こることを、預言は示している。これらの戒めの一つは、神が創造主であることを直接指示している。第四条は、次のように宣言している。「七日目はあなたの神、主の安息である。……主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト記20章10、11節)。安息日について、主は、さらに、それが「しるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである」と言われる(エゼキエル書20章20節)。そしてその理由は、「それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである」と言われているのである(出エジプト記31章17節)。 GCJap 501.1
「創造の記念としての安息日の重要さは、われわれがなぜ神を礼拝すべきであるかという真の理由を常に考えさせるところにある」。すなわち、神は創造主であって、われわれは神に造られたものだからである。「それゆえに、安息日は、礼拝の根底そのものである。というのは、安息日が、他のどんな制度よりも、最も感銘深い方法で、この大真理を教えているからである。七日目における礼拝だけでなく、すべての礼拝の真の根拠は、創造主と造られたものとの区別にある。この大事実は、決して廃することのできるものではなく、また決して忘れてはならないものである」。神がエデンで安息日を制定されたのは、この真理を常に人々の心に留めておくためであった。 GCJap 501.2
そして神がわれわれの創造主であるという事実が、神を礼拝する理由として存続するかぎり、安息日は、そのしるし、また記念として、存続するのである。安息日がすべての人に守られ、人間の思いと愛情が、崇敬と礼拝の対象としての創造主に向けられていたならば、偶像礼拝者や無神論者や不信心者は決して出てこなかったことであろう。安息日を守ることは、「天と地と海と水の源とを造られた」真の神に対する忠誠のしるしである。それゆえに、神を礼拝し神の戒めを守ることを命じるメッセージは、特に第四条の戒めを守るよう人々に呼びかけるのである。 GCJap 501.3