なんの努力も克己も、世俗の愚かさからの分離をも要求しない安易な宗教を望む心が、ただ信じさえすればよいという一般うけのする信仰の教義をつくり上げた。使徒ヤコブは、次のように言っている。「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。……ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ……たのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2章14~24節)。 GCJap 541.1
神の言葉の証言は、この、行いを伴わない信仰という人を惑わす教義に反対している。憐れみを受ける条件に従わずに神の恵みを受けることができると主張することは、信仰ではなくて、臆断である。なぜなら、真の信仰は、聖書の約束と規定とに基づくものだからである。 GCJap 541.2
神の要求を一つでも故意に犯していながら、清くなれると信じて、自分を欺いてはならない。罪と知りながらそれを犯すことは、聖霊のあかしの声を沈黙させ、魂を神から引き離すものである。「罪は不法である」。そして、「すべて罪を犯す者〔律法を犯す者〕は、彼を見たこともなく、知ったこともない者である」(ヨハネ第一・3章6節)。 GCJap 541.3
ヨハネは彼の手紙の中で、愛について詳しく述べたのであるが、しかしまた、神の律法を犯す生活をしながら清められたと主張している人々の正体を、摘発することを躊躇しなかった。「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである」(ヨハネ第一・2章4、5節)。ここに、すべての人の信仰の告白を試みる試金石がある。天においても地においても、清めに関する神の唯一の標準によって量るのでなければ、だれひとり、清い人であるとはいえない。もし人々が、道徳律を重んじず、神の教えを軽んじ無視し、これらの最も小さい戒めの一つを破り、またそうするように人に教えるならば、そのような人々は、神の目からは評価されない。そしてわれわれは、彼らの主張することにはなんの根拠もないことを知ることができるのである。 GCJap 542.1
また、自分には罪がないと主張する者は、そう主張すること自体が、清めからほど遠い証拠である。そのような主張は、彼が、神の無限の純潔と神聖さとを真に認識していないためである。あるいは、神の品性と調和するためにはどのようにならなければならないかを、悟らないためである。イエスの純潔と気高い美しさを知らず、罪の邪悪さと害悪を真に理解しないために、人は自分を清いものと考えるのである。自分とキリストの間の距離が、遠ければ遠いほど、また、神の品性と要求に対する見解が不十分であればあるほど、人間は、自分自身の目に正しく思われるのである。 GCJap 542.2