聖書に示されている清めとは、全存在―─霊と魂と体─―を含むものである。パウロは、神がテサロニケの人々の「霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」と祈った(テサロニケ第一・5章23節)。 GCJap 542.3
また、信者たちに、「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」と彼は書いた(ローマ12章1節)。昔のイスラエルの時代において、神に犠牲としてささげられるものは、みな、注意深く調べられた。その動物にもし一つでも欠陥があれば、それは拒否された。なぜなら、神は、供え物は「傷のないもの」でなければならないと命じられたからである。そのように、キリスト者は、自分たちの体を、「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として」ささげるように命じられている。そうするためには、彼らのすべての能力を、なしうる最上の状態に保たなければならない。肉体的、または知的能力を弱める習慣はすべて、人間を創造主に奉仕するのにふさわしくない者にする。神は、われわれが、自分たちのささげうる最上のものより劣るものをささげるとき、喜ばれるであろうか。キリストは、「心をつくし……て、主なるあなたの神を愛せよ」と言われた。心をつくして神を愛する者は、その生涯をもって最上の奉仕をすることを望み、神のみこころを行う能力を増進させる法則に、心身のすべての能力を調和させようと常に努力する。彼らは、食欲や情欲をほしいままにして、彼らの天の父にささげる供え物を弱めたり汚したりしないのである。 GCJap 543.1
ペテロは、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい」と言っている(ペテロ第一・2章11節)。すべての罪深い満足は、機能を麻痺させ、知的霊的知覚力を鈍らせる。そして、神の言葉や聖霊も、心になんの印象も与えることができなくなるのである。パウロは、コリント人に次のように書いている。「肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか」(コリント第二・7章1節)。そして彼は、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和」などみ霊の実に「自制」も加えている(ガラテヤ5章22、23節)。 GCJap 543.2
このような霊感の言葉があるにもかかわらず、利益や流行を追ってその能力を弱めている自称キリスト者たちが、なんと多いことであろう。また、暴食、飲酒、放蕩などによって、神のかたちである人性を堕落させている者が、なんと多いことであろう。 GCJap 544.1
しかも教会は、これを譴責するどころか、かえって食欲に訴え、物欲や快楽を愛する心に訴えることによって、こうした害悪を助長し、キリストに対する愛が弱いために供給できない教会の資金を、補充しようとするのである。もしキリストが、今日の教会に入ってこられ、宗教の名のもとに行われている飲食と汚れた取り引きを見られるならば、昔、神殿から両替人たちを追い出されたように、これらの神を汚す人々をも追い出されないであろうか。 GCJap 544.2