預言者ダニエルは次のように言っている。「わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた」(ダニエル書7章9、10節)。 GCJap 550.1
こうして、人々の品性と生活が、全地の裁判官であられる神の前で調査され、各人が「そのしわざに応じ」て報いられる重大で厳粛な日が、預言者の幻に示された。日の老いたる者とは、父なる神のことである。詩篇記者は、「山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる」と言っている(詩篇90篇2節)。万物の根源であり、すべての律法の源であられるお方が、審判をつかさどられる。そして、「万の幾万倍、千の幾千倍」の聖天使たちが、仕える者、また証人として、この大法廷に列席するのである。 GCJap 550.2
「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない」(ダニエル書7章13、14節)。ここに描かれているキリストの来臨は、キリストが地上に再臨されることではない。キリストは、天において日の老いたる者のもとに来られるのであって、それは、彼の仲保者としての働きが終わるときに与えられる「主権と光栄と国」とをお受けになるためである。 GCJap 551.1
二三〇〇日の終わりである一八四四年に起こると預言されたのは、この来臨のことであって、キリストが地上に再臨されることではなかった。われわれの大祭司は、天使たちを従えて、至聖所に入り、神のみ前で、人類のための彼の最後の務めをなさる。それは、調査審判の働きであり、贖罪の恵みにあずかる資格があることを示したすべての人のために贖いをなさることである。 GCJap 551.2
象徴的儀式においては、告白と悔い改めによって神の前に出て、その罪が罪祭の血によって聖所に移された者だけが、贖罪の日の儀式にあずかることができた。そのように、最終的な贖罪と調査審判の大いなる日に審査されるのは、神の民と称する人々だけである。悪人の審判は、これとは全く別の働きで、もっとあとで行われる。「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか」(ペテロ第一・4章17節)。 GCJap 551.3