キリスト者の生涯は、謙遜がその特徴であるが、悲しみや自己を卑下する気持ちがあってはならない。神に受け入れられ祝福されるような生活をすることは、すべての者の特権である。われわれが、常に罪の宣告と暗黒のもとにあることは、われわれの天の父のみこころではない。頭をうなだれて、自分のことばかりを考えているのは、真の謙遜の証拠ではない。われわれは、イエスのところへ行って、清められ、律法の前にはばかることなく立つことができるのである。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」(ローマ8章1節)。 GCJap 548.1
イエスによって、堕落したアダムの子供たちは、「神の子」となる。「実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」(ヘブル2章11節)。キリスト者の生活は、信仰と、勝利と、神にある喜びとの生活でなければならない。「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である」(ヨハネ第一・5章4節)。神のしもべ、ネヘミヤが、「主を喜ぶことはあなたがたの力です」と言ったのは至言である(ネヘミヤ記8章10節)。パウロも言っている。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(ピリピ4章4節、テサロニケ第一・5章16~18節)。 GCJap 548.2
これが、聖書のいう悔い改めと清めの実である。しかし、神の律法に示された義の大原則が、キリスト教界において冷淡に扱われているために、こうした実はほとんど見ることができない。これが、かつてのリバイバルにあらわれたような神の霊の深い永続的な働きが、ほとんど見られない理由である。 GCJap 548.3
われわれが変化するのは、眺めることによってである。神がご自分の品性の完全さと神聖さを示されたこれらの聖なる戒めを、人々がなおざりにし、人間の教えや理論に心をひかれるならば、教会内で生きた敬虔の念が低下しても少しも不思議ではないのである。主は言われる。彼らは、「生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った、それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ」(エレミヤ書2章13節)。 GCJap 549.1
「悪しき者のはかりごとに歩ま……ぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(詩篇1篇1~3節)。神の律法が、その正当な位置に回復されて初めて、神の民と称する人々に、初代教会の信仰と敬虔のリバイバルが起こり得るのである。「主はこう言われる、『あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ』」(エレミヤ書6章16節)。 GCJap 549.2