調査審判と罪をぬぐい去る働きは、主の再臨の前に完了しなければならない。死者は、書物に記録されたことによって裁かれるのであるから、彼らが調査されるその審判が終わるまでは、彼らの罪はぬぐい去られることはできない。しかし、使徒ペテロははっきりと、信者の罪は、「主のみ前から慰め〔原文ではrefreshing(活気づけ、回復の意)〕の時が」くる時にぬぐい去られる、そして、「キリストなるイエスを、神がつかわして下さる」と言っている(使徒行伝3章19節参照、20節)。調査審判が終わると、キリストは来られる。そして、たずさえて来た報いを、それぞれの人の行いにしたがってお与えになるのである。 GCJap 557.3
型としての奉仕において、大祭司は、イスラエルのために贖罪をなし終えると、外に出て来て、会衆を祝福した。そのように、キリストも、仲保者としての働きを終えられると、「罪を負うためではなしに……救を与える」ために来られて、彼を待っている人々に永遠の生命をお与えになる(ヘブル9章28節)。祭司が聖所から罪を除去した時に、アザゼルのやぎの上にそれを告白したように、キリストは、罪の創始者であり扇動者であるサタンの上に、これらの罪をすべて置かれるのである。アザゼルのやぎは、イスラエルの罪を負って、「人里離れた地」に送られた(レビ記16章22節)。そのように、サタンは、自分が神の民に犯させたすべての罪を背負って、千年の間、この地上に監禁される。地上はその時、荒れ果てて住む者もいない。そして彼は、ついに、すべての悪人を滅ぼす火の中で、罪の刑罰を余さず受ける。こうして、罪は最終的に除去され、進んで悪を捨て去った人々がすべて救われて、贖いの大計画は完成するのである。 GCJap 558.1
審判が指定されていた時、すなわち、二三〇〇日の終わる一八四四年に、調査と罪の除去の働きが始まった。これまでにキリストの名を唱えたことのある者はすべて、この厳密な審査を受けなければならない。生きている者も死んだ者もともに「そのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって」裁かれる。 GCJap 558.2
悔い改めず棄て去っていない罪は、赦されず、記録の書からぬぐい去られない。それは、神の大いなる日に、罪人に不利な証言をする。その悪行は、昼の明るみで行われたものかもしれないし、あるいは夜の暗闇の中で行われたものかもしれない。しかし、いずれにしてもそれらは、われわれが申し開きをしなければならない神の前には、そのままはっきりとあらわれていた。神の天使たちが、一つ一つの罪を目撃し、それを誤りなく記録した。罪は、父母や妻子、そして同僚たちからは、隠し、否定し、秘密にしておくことができるかもしれない。罪を犯した者たち以外は、だれもその罪悪を疑ったりなどしないかもしれない。しかし、天の知的存在者たちの前には、それはあらわにされている。 GCJap 558.3
どんなに暗い夜の暗黒も、極秘の欺瞞的手段も、永遠の神から一つの思いすら隠すものとはならないのである。神は、すべての不正な計算、不正な取り引きを、正確に記録しておられる。神は、信心深い様子に欺かれることはない。神は品性の評価において、決して誤られることはない。人間は、心の汚れた人々に欺かれるかもしれないが、神は、すべての見せかけを見破り、内的生活を読みとられる。 GCJap 559.1