われわれは、今、大いなる贖罪の日に生存している。型としての儀式においては、大祭司がイスラエルのために贖罪をなしている間、すべての者は、主の前に罪を悔い改め、心を低くすることによって、身を悩まさなければならなかった。もしそうしなければ、彼らは、民の中から絶たれるのであった。それと同様に、自分たちの名がいのちの書にとどめられることを願う者はみな、今、残り少ない恩恵期間のうちに、罪を悲しみ、真に悔い改めて、神の前に身を悩まさなければならない。われわれは、心を深く忠実に探らなければならない。多くの自称キリスト者がいだいている軽薄な精神は、捨て去らねばならない。われわれを打ち負かそうとする悪癖に勝利しようとする者は、みな、激しく戦わなければならない。準備は、一人一人がしなければならない。われわれは、団体として救われるのではない。一人の者の純潔と献身は、これらの資格を欠く他の人の埋め合わせにはならない。すべての国民が神の前で審判を受けるのであるが、しかし神は、あたかもこの地上にその人一人しかいないかのように、厳密に一人一人を審査されるのである。すべての者が調べられねばならない。そして、しみもしわもそのたぐいのものがいっさいあってはならないのである。 GCJap 563.2
贖罪の働きが終結しようとする時の光景は、実に厳粛である。そこには、実に重大な意義が含まれている。審判は今、天の聖所において進行中である。長年にわたって、この働きは続けられてきた。まもなく―─その時がいつかはだれも知らないが―─生きている人々の番になる。神のおそるべき御前で、われわれの生涯が調査されねばならない。今は、他のどんな時にもまさって、すべての者が救い主の勧告に心をとめるべき時である。「気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである」(マルコ13章33節)。「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない」(黙示録3章3節)。 GCJap 564.1
調査審判の働きが終わる時、すべての人の運命は、生か死かに決定されてしまっている。恩恵期間は、主が天の雲に乗って来られる少し前に終了する。キリストは、その時を予見して、黙示録の中で次のように宣言しておられる。「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ。見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(黙示録22章11、12節)。 GCJap 564.2
その時が来ても、義人と悪人は、その死ぬべき肉体のままで、地上で生活をしている。天の聖所では、最終的で取り消すことのできない決定が宣告されたことも知らずに、人々は、植えたり、建てたり、飲んだり、食べたりしている。洪水の前に、ノアが箱舟に入ったあとで、神は彼を舟の中に閉じ込め、神をおそれない人々を外に閉め出されたのである。しかし、人々は、七日の間、彼らの運命が決定されたことも知らずに、不注意な放縦の生活を続け、差し迫った審判の警告をあざけったのであった。「人の子の現れるのも、そのようであろう」と救い主は言われる(マタイ24章39節)。真夜中の盗人のように静かに、人に気づかれずに、すべての人の運命が定まる決定的な時、罪人に対する恵みの招きが最終的に取り去られる時がやって来る。 GCJap 565.1
「だから、目をさましていなさい。……あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない」(マルコ13章35、36節)。目を覚まして待つことにうみ疲れ、世俗の魅力に心を向ける人々の状態は、実に危険である。実業家が利益の追求に心を奪われ、快楽の愛好家が楽しみにふけり、流行を追う女性が身を飾っているその時に、全地の審判者が、「あなたがはかりで量られて、その量の足りないことがあらわれた」という宣言をなさるかもしれないのである(ダニエル書5章27節)。 GCJap 565.2