救い主の仲保の恵みにあずかりたいと思う者は、神をおそれつつ聖潔を完成していくというその義務を、何ものにも妨げられてはならない。貴重な時間は、快楽や虚飾、または利益の追求に費やすのではなくて、真理の言葉を熱心に、祈りとともに研究するために用いなければならない。聖所と調査審判の問題は、神の民によってはっきりと理解されねばならない。すべての者は、自分たちの大いなる大祭司キリストの立場と働きについて、自分で知っている必要がある。そうしなければ、この時代にあって必要な信仰を働かせることも、神が彼らのために計画しておられる立場を占めることもできなくなる。一人一人の魂は、救われるか、滅びるか、そのどちらかなのである。各自は、今、神に裁かれようとしている。各自は大いなる審判者と顔を合わせなければならない。とするならば、審判が始まり、数々の書物が開かれる厳粛な時のことを、ダニエルとともに、定められた日の終わりに立って、自分たちの分を受けねばならない厳粛な時のことを、たびたび瞑想することは、すべての者にとってどんなにか重要なことであろう。 GCJap 561.2
こうした問題について光を受けた者はみな、神が彼らにゆだねられた大いなる真理について証言しなければならない。天の聖所は、人類のためのキリストのお働きの中心そのものである。それは、地上に生存するすべての者に関係している。それは、贖罪の計画を明らかにし、われわれをまさに時の終わりへと至らせて、義と罪との戦いの最後の勝利を示してくれる。すべての者が、これらの問題を徹底的に研究し、彼らのうちにある望みについて説明を求める人に答えることができるようにすることは、何よりも重要なことである。 GCJap 562.1
天の聖所における、人類のためのキリストのとりなしは、キリストの十字架上の死と同様に、救いの計画にとって欠くことのできないものである。キリストは、ご自分の死によって開始された働きを、復活後、天において完成するために昇天されたのである。われわれは、信仰によって、「わたしたちのためにさきがけとなって、はいられた」幕の内に入らなければならない(ヘブル6章20節)。 GCJap 562.2
そこには、カルバリーの十字架からの光が反映している。そこにおいて、われわれは、贖罪の奥義について、もっとはっきりした理解を持つことができる。人間の救済は、天が無限の価を払うことによって達成された。払われた犠牲は、破られた神の律法の最大限の要求に相当するものである。イエスは、父なる神のみ座への道を開かれた。そして、信仰によって彼に来るすべての者の心からの願いは、彼のとりなしによって、神の前にささげられるのである。 GCJap 562.3
「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける」(箴言28章13節)。自分たちの過ちを隠し、言いわけをする人々が、もし、サタンが彼らのことでどんなに喜び、そうした彼らの行為のゆえにキリストと聖天使たちをどんなに嘲笑するかを見ることができるならば、彼らは、急いでその罪を告白し、捨て去ることであろう。品性の欠陥を通して、サタンはその人の心全体を支配しようと働きかける。彼は、人がこれらの欠陥に固執するならば、自分が成功を収めることを知っている。それだから彼は、欠陥に打ち勝つことは不可能であるという致命的な詭弁をもって、キリストに従う人々を欺こうと、いつも懸命になっている。しかしイエスは、彼の傷ついた手と砕かれた体をもって、彼らのために嘆願される。そして、彼に従ってくるすべての者に「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と宣言されるのである(コリント第二・12章9節)。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章29、30節)。それだから、だれでも、自分たちの欠陥は不治のものであると思ってはならない。神は、それらに打ち勝つ信仰と恵みをお与えになるのである。 GCJap 563.1